スーザン・ソンタグ『土星の徴しの下に』

曇。
昨晩は灯りを点けたまま寝てしまう。昧爽起床、昨晩の続きで頑張る。疲れてふとんに潜り、ひどくつらかった部分を掘っているうちにうとうとして、そのまま八時過ぎまで。
 
昼。
NML で音楽を聴く。■シューベルトの「さすらい人幻想曲」 D760 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNMLCD)。■シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。この曲は第一楽章に尽きるのであるが、その第一楽章はシューベルトがあまりにも美しくもの悲しい第二主題を思いついてしまったばっかりに、曲を終わらせるのに苦労しているのがありありとわかる。それを聴く曲。第二楽章と終楽章は、どうでもいいといえばどうでもいい。

シューベルト即興曲集 op.90 D899 で、ピアノはヴァルター・ギーゼキングNML)。
 
イオンモール各務原へ。ユニクロにて部屋着上下を買う。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・黒糖+ブレンドコーヒー429円。『逝きし世の面影』第七章まで読む。涙また涙、わたくしの感傷的なことである。我々=日本の民衆がいかに多くのものを失ったか、愕然とする。我々が築くべき新たな文明に向けて、本書は示唆するところ大だろう。
 
それにしても、ロゴス的知性による啓蒙で万事解決すると思っている(日本の)インテリ(とその追随的民衆)の浅はかさには、わかっていても時に腹立ちと苛立ちと諦念を感じずにはいない。あなたたちは、感情が決定的に貧しいのだ、とかいいたくなってしまう。そういうわたしがまだまだ未熟だということも、わかってはいるのだが。
 
 
図書館から借りてきた、スーザン・ソンタグ土星の徴しの下に』(原著1980)読了。再読であるが…、正直いってあんまりおもしろくなかったな。多少なりとも興味のもたれたエッセイについては、既に言及した。結局、スーザン・ソンタグも、また教えられるところの多い訳者解説も、象徴の上に象徴を積み重ねていくだけ(?)である。重ねれば重ねるだけ、意味は曖昧になり、解釈学がはびこることになる。これが、インテリの営為だ。もっとも、そんなのはわたしの無知のいいわけ、ということになるかも知れない。それはそれで、事実だろう。わたしは、つまるところスーザン・ソンタグという鋭く博識な知性が、何をしたいのか、よくわからなかったようだ。問いが大きすぎるかも知れないが、批判的知性とは何か、何をなし得るのかということが、どうやらわたしにはよくわからなくなっているらしい。とは、どうでもいいことであるが。 
しかし、「ニーチェの系譜学」がどうのという紋切り型には、つくづくうんざりさせられるな。この手の無思考に慣らされた「知性」が、非インテリに対して「自分で考えることが大事なのですよ」とか上からのたまってみせるのだから、かかるを退廃といわずして何というのだろうか。
 
夜。
ぼくたちは勉強ができない!』(2019)第13話(最終話)まで一気観。2期。気になったから一気に観たけれど、これ、最後に水泳ちゃんを選んだってこと? ちょっと唐突なんだけど、ってまあ、どうでもいいか笑。最後の方、文系ちゃんが攻めているので、彼女が来るかと思ってた。1期でも一緒のふとんで寝てたし。