こともなし

晴。
 
ちょっとしたことで元気がなくなって、部屋にたれ罩めているとどこまでも落ち込んでいきそうなので、昼からイオンモール各務原ミスド(タコスミート&チーズパイ+ブレンドコーヒー415円)へいって、フードコートで本を読む。わたしは人混みが結構好きなのだ。夏休みで、子供たちの姿が多い。
 読むのは老母から回してもらった、詩人・石垣りんさんのエッセイ集(『朝のあかり』)。文庫本による最近のアンソロジーだ。幻想に幻想を重ねたわたしの最近の精神生活に対して、心の土台となるような文章。わたしは、石垣りんさんのように、しっかり地に足をつけて働いたことはなかったなあと思う。塾の先生として働いていたときも、特に働くということについて、何も考えていなかったような気がする。教えるということについても、それなりにマジメに一生懸命やったとは思うが、いまとなっては、自分の中に何か残ったものがあるのか。教え子たちは、わたしをどう見ていたのか。心もとないという他ない。まあ、そんなことはどうでもいいが。
 女がひとりで生きていくということ。いまはその「女が」の部分は、取り除かねばならない時代の筈である。人生の幸せ? そんなものは犬に食わせてしまえ。
 著者を大事にしてくれた祖父が亡くなる前、石垣りんさんは「私はひとりで暮らしてゆけるかしら」と祖父に問うた。祖父は「ゆけると思うよ。人間、そうしあわせなものでもなかった」と応えたそう。まさに、それだと思う。

外は37℃の酷暑。もうこの高温が当たり前となったかのような夏。
駐めた車の前輪の先にセミがひっくり返って死んでいた。踏み潰すのも何なので、骸を脇へ移してやった。自己満足の類いかも知れない。
 
 
老母にいつもの高熱が出たので、適当に夕飯を拵えて老父と食う。
 
夜。
石垣りんさんの続きを読む。どのような場所から出てきても、残る人は残るのだな。石垣りんさんは生活の中から詩を書いた「生活詩人」などと呼ばれ、それはいまでもそうかも知れないけれども、たまたま「詩による社会変革は可能か」というアンケートを見かけて、可能でなければつまらない、と心の中で即答できる詩人だったというのは、気に留めておいてよいことなのではないかと思う。いや、生活に根づいているからこそ、詩によって「社会変革が可能」なのではあるまいか?
 
吉本隆明全集26』を拾い読みする。吉本さんも下らないことをいってるな、とか、やっぱりおもしろいなとか、とにかくしばらく鬱気が散じられた。鬱鬱させられる文章しか、ほんと現代には流通していない。「吉本隆明は滑稽である」と蓮實重彦はいったが、滑稽ですらない、現在のそこそこ出来た文章たちの氾濫! しかし、滑稽な文章と思って吉本さんを読んでいると、「芸術や思想には自己否定が必須の要素である」というような太刀の一閃が不意にあびせられたりする、わけで。こういうことがない限り、文章なぞ読んで何の意味があるか。