こともなし

晴。
起きると寒く、暖房を入れる。
 
さて、ゴールデンウィークはおとなしく家で過ごそう。部屋でごろごろして過ごすかな。
 
いい天気。図書館へ老母の希望した本を取りに行く。
市民公園の噴水が一時間に十五分吹き上がるのだが、それを見ていた小さな女の子二人が、パチパチと拍手をしていた。
「リゼロ」の2期を借りてこようと TSUTAYA に寄ったのだが、ちょうど借りられていました。
街路樹の緑がきれい。運転していて気が晴れる。
 
雨樋の掃除。檜の落ち葉でどうしても詰まるので、時々はやらないといけない。檜を伐ってしまうのもかわいそうなので、わたしができる間はしないとな。
 
 
玄侑さんの公式サイトに、エッセイがたくさん収録されているのだな。つれづれなるままに読む。玄侑さんや安永祖堂老師(いまでは老大師と表記すべきかも知れない)の師である平田精耕老師の本を、ネット古書で注文してみる。申し訳ないような安い値段だ。平田精耕老師のことは、一般にはほとんど知られていないだろう。
 
夜。
夕飯の洗い物をしている最中に、皿に茶碗を落として割ってしまう。
 
 
鬱々するのでさっさと寝ようかと思ったが、たまたま『吉本隆明全集19』を拾い読みし出したら読み耽ってしまった。特に「反核」運動批判の文章。いま読むと、吉本さんのいっていることは明白だ。「反核」というのは、核戦争に決定力をもつ米ソの双方を相手にしなければならないのに、無意識の内に(?)ソ連=正義、アメリカ=悪という図式でソ連茶坊主になっている日本の左翼知識人はお笑い草だ、というものである。じつに明快で、当時吉本さんが核兵器肯定論者と見做されたとか、読解力不足もいいところだ。しかし、いまも読解力不足というのは、変わっていないような気もするが。
 親鸞関係の文章もとてもおもしろく読んだ。こちらは、自分の読解力不足を痛感するが。吉本さんはよほど親鸞に惹かれるのだな。わたしには親鸞はあまりにもむずかしい人だ。信と不信の振幅が大きすぎる。絶対他力というのは、じつに易行などではあり得ないのだ。
 
吉本さんが鮎川信夫(晩年の、ということになるだろう)の詩に、管理社会への絶望を読み込んでいる文章には驚いた。深読みのしすぎなのかはわたしにはわからないが、引用される鮎川の詩を読む限りでは、なるほどとも思う。しかし、80年代の始めの時点で、「管理社会」の不可避を認識しているとは。いまでこそ我々あるいは若い人たちには明らかで、また多くの人々はいまだ気づいていないところであるが、さすがに詩人たちということであろうか。
 
しかし、鬱々せざるを得ないわたしも、吉本さんを読むと元気がでちゃうな。吉本さんのことは、毎日取りとめもなく考えていて、勇気をもらっている、この苦痛しかない日常で。