こともなし

晴。
昨晩は夕食後に寝てしまい、深夜11時頃に起きる。大岡信を読み、ブログを書く。

吉本さんの全集を読む。吉本さんはしんどいのでそれほど長時間読めないが、とにかくむさぼるように読む。いま1970年の吉本さんを読んでも直接何か役に立つわけではないけれど、ここが自分の居場所なのだという感じがする。新鮮な空気が呼吸できる場所だ。いま吉本さんを読む人はどんな人なのだろうと思う。昔からの「吉本シンパ」の年配の人たちであろうか。自分にはあまり興味がもてない人たちであるが。自分には「無謬の吉本隆明」など、どうでもよい。「知の巨人」というのすら、確かにそうではあるのだが、それにもあまり興味はない。むしろ「自分は吉本隆明を評価しない」という浅田さんなどの吉本評に、興味がある。吉本さんは詩人であり、批評家なわけだが、やはり詩人であるというのが本質だと思う。読んでいると、何か遠くに薄明かりのようなものが感じられていて、何とか掘削してそれに近づいていこうという、評論などもそういう書き方なのであって、概念の操作をやっているわけではないのだ。だから、たぶん吉本さん自身すら苦しい書き方をしていると自覚しているように思われるところが多数あって、そういう文章は論理を追うだけではダメである。だから、今風の読み方をすれば、吉本隆明は意味がないことになるし、だから我々の世代以降にはなかなか読まれないだろう。むしろ、「吉本隆明は事大主義者である」といった谷沢永一氏の評が正しいということになる。まあしかし、自分は勝手に読むだけである。吉本さんの掘削に、付き合っていくだけだ。それだけで自分には何の不足もない。

明け方が近い。音楽を聴く。

バッハのイギリス組曲第二番 BWV807 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ


プロコフィエフのピアノ・ソナタ第七番 op.83 で、ピアノはボリス・ベルマン。このピアニストは初めて聴くが、Wikipedia で見るとプロコフィエフを得意にしているようで、プロコフィエフのピアノ・ソナタに関する著作もあるようだ。聴いてみると、プロコフィエフが完全に消化されていて、非常に多くのことに心をくばっている演奏だといえるように思う。もはや、前衛的な音楽を完璧に弾いてみましたというような演奏ではない。そうした意味では、リヒテルポリーニの演奏よりも優れているとすらいえるだろう。技巧にも不足なところはまったくなく、曲のすみずみまでよくわかるし、またプロコフィエフ独特の耽美性が強調されていて、とても美しい。それに対する荒々しく不協和な部分との対比も申し分なく、現代的感性で弾かれた見事なプロコフィエフであると感じ入った。プロコフィエフだけではもったいないピアニストだろう。


ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」で、指揮はサイモン・ラトル。たんに一流というにすぎない演奏。退屈極まりない。ラトルにしてみればもう何回振ったかわからない曲であり、まったくのルーチンになっている。救いといえば演奏後の聴衆の反応がわりと冷静なものであったことで、僕は直ちにブラボー、フーっていうのを予想していたのだが(いや、ブラボーって言っているやつも居るが)、さすがにそんなことはなかった。よくわかっている人たちの反応だなという印象。しかしこれが現在最高の指揮者のひとりというのだから、まったく音楽ビジネスというものは厄介なものである。


リゲティ弦楽四重奏曲第二番で、演奏はアルディッティSQ。

夜、仕事。

マジメな本ばかりを読みすぎて文章がパセティック気味になっている。ので下らないことをするのです。
このところプログラミングをしていないな。ちょっと題材が枯渇している感じ。プログラミングを仕事にしていない人は、どうしてもやることがなくなるのだな。とりあえずスプライン曲線を描くことに挑戦。あとは思うところでは、dRuby とか物理エンジン(ODE)とか。ぐぐっていると Ruby物理エンジンで遊ぶのは Chipmunk + Gosu が目につく。これでもいいのだけれどね。