マジメすぎる現実と下らないアニメ / 町田康『口訳 古事記』

晴のち曇。
たくさん夢を見たのを覚えている。
 
アニメ(似たようなことがゲームにもいえると思うが、ゲームについては何も知らない)が現在我々の日常が高度に知性化したことのアンチテーゼとして機能しているということはあると思う。アニメは非現実的な世界を扱いながら、どこか日常を捻れて関数変換して写像し、暗喩的な形でいまの現実を写し出している、そういう意味でリアルさがあるのだと考えられる。日常という「上半身」(脳)に対する「下半身」(性器)のようなもの。我々の日常は、あまりにもマジメできびしいのだ。だからアニメって、あんなに下らないんだよね。知性化された日常からこぼれ落ちたものを、下らないアニメが救っているともいえるかも知れない。
 そこで、文学という生の全体性への追求が、どうして無効化したのかということだ。それはわかりやすい。ひとつは、文学が高度・高尚になりすぎてしまったからだ。文学が「脳化」した。もうひとつは、それとも関係しているが、文学が高度資本主義のもたらす「生の単純化」(2023.7.7 参照)に対して有効でないからだ。高度資本主義は、妄想的に欲望を喚起し、消費させる無限サイクルという点で、単純である。文学は、ある意味で複雑すぎるという点で、いまの現実に合わない。それゆえに、文学は現在でも存在するけれども、「脳化」した知的エリート・知的選民のものであるしかない。大雑把にだが、そんなふうにいえると思う。じつに、むずかしいことである。
 もっと気楽に生きられないものかと思うが、学校にしろ仕事にしろ、マジメで突き詰めすぎるよ。さらに、どんどんそれがひどくなっていく。超高度な生成AI の登場なんかを見ても、未来は絶望的という気分になるな、なんか。
 

 
昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。シュガーレイズド+ブレンドコーヒー429円。
大江健三郎同時代ゲーム』の続き。「第五の手紙」まで読む。ようやくあとひとつの「手紙」となった。日々精神が貧しいので、大江健三郎の小説に入り込んでいくのに時間と苦痛を要する。それでも、読む価値が明らかにある。
 
イオンモール1Fのエスカレーターの前に UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)が場所をとって呼びかけていたが、わたしの見ていた間はちらりとでも視線を向ける者さえいないようだった。まあ、そんなものだろうな。ただ立って声をかけているだけではダメで、パンフレットでも配らないとな。そんなことくらい、彼らもわかっているだろうけれど。
 
駐車場は42℃、クソ暑くて肌に痛いくらい。
 

 
夜。
図書館から借りてきた、町田康『口訳 古事記』(2023)読了。町田康もいいかげんワンパターンだなとは思うが、かなりおもしろかったにはちがいない。バカバカしい巫山戯た文体ではあるが、わたしの記憶に照らして、じつは原文にほぼ忠実だと思う(余計な現代的脚色はあるが)。(もちろん)原文もそうだが、お話としておもしろいのはヤマトタケルの日本統一までかな。ヤマトタケルのエピソードは、下らない文体でも哀切さを感じる。で、そのあとはいろいろと天皇の話なのだが、原文で読むのは(わたしには)退屈気味で、よく覚えておらず、なのでこの「口訳」でおもしろく書いてあるのは助かる、のかも知れない。
 ところで、「下らない文体」とか書いたが、これは文章技術的にはすごいのである。例えば読点の切り方など自由自在で、なかなかできることではない、超絶技巧といったっていいと思う。町田康といえば、とにかくこの文章技術がすごいのだ。
 しかし、である。幼稚な感想になるが、『古事記』は最初から最後まで、身内同士の殺し合いの話ばかりだなと気づく。もともと、権力争いを正当化するため、正統性 legitimacy の証明のための文書なのだと、『古事記』について思うわけだ。って、既に言い古されたことではあるが。

古事記』は本当は神話学的に読まねばならない書物だ。でも、わたしにそこまでする実力はない。(もっとも、そうすると『日本書紀』と合わせ読むことが必要だろう。)山口昌男とかは、何かいっていたっけか。レヴィ=ストロースがおもしろそうなことをいっていたと記憶するが、具体的にどういったのかは、覚えていない。
 
 
『僕の心のヤバイやつ』(2023)第12話(最終話)まで観る。第9話から惹かれたな。よかった、尊い。最終話の市川の最後のセリフ、市川らしくってとってもよかった。不意打ちで、ちょっとじんときた。2期の制作も決まっているから、楽しみ。