伊藤比呂美&町田康『ふたつの波紋』

曇。
寝坊。目が覚めたら九時で、びっくりして飛び起きた。
 
スーパー。五倍ポイントの日。
雪がちらちらしていて寒い。車のハンドルが冷たいのだ。車外は4℃。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスクラリネットソナタ第一番 op.120-1 で、クラリネットは松本健司、ピアノは横山幸雄NMLCD)。悪くない。
 
 
昼から県図書館。行きは時雨れていたと思ったら、霙になり、10分ほどは強い雪になった。そのあと、また霙混じりの雨に。バッハのパルティータを聴きながら運転する。石牟礼さんの全詩集や、みすず書房バーリンなどを借りる。
 「新潮」誌で中沢さんの「精神の考古学」第3回を読む。中沢さんは、ネパールでとうとう達人ゾクチェンパ(ゾクチェンの修行者)であるケツン先生に会う。ケツン先生に日本語で話しかけられ、あっさりとゾクチェンの修行を始められることとなる。中沢さんの文章は平易で淡々としており、しかし新しい世界が自分の前に開けてくるという、若い中沢さんの感激がよく伝わってきて、わたしの中の深いところが動かされるのを感じる。なんだかぼーっとしてしまう。
 さて、例えば「象徴の残余物」という言葉。わたしがこのブログでよくいっている「感情」という言葉は、この「象徴の残余物」というに近い筈である。また、心の本性は決して汚れることがなく、光であるということ。心は無底であること。たぶん、汚れるのはアーラヤ識なのだ。「無意識」というのはじつは存在せず、じつはその「無意識」といわれているのが我々の心なのであり、むしろ意識が仮構物であるということ。しかし、こんなことを書いてもじつは意味がなくて、すべては自分の心で体験しないといけないのだ。
 あと、「新潮」をテキトーに眺める。なかなかのビッグネームばかりじゃんと思うが、特に興味は持たれない。「レコード芸術」誌もあるなと見つけて、特集が「大作曲家晩年の室内楽」となかなかおもしろそうなので、ちょっと手にとってみる。しかし何となくパラパラ中を見ているうち、どうでもよくなって帰ることにする。
 
帰りに肉屋。
 

 
図書館から借りてきた、伊藤比呂美町田康『ふたつの波紋』一気に読了。対談集というか、バトルだ。いやー、めっちゃおもしろかった。全然噛み合ってない。というか、町田康が伊藤さんに噛みつきまくっている!(笑) 町田康のいうところでは、自分には「自分」というものがない、人間なんてのは大したことがなくて、下らない自我がイヤだといって、伊藤比呂美の「自分信仰」みたいなのを猛攻撃している。わたしの受けた感じは、町田康の「自分がない」というのは、科学に「自分がない」のに似ているというものだった。そして、「文学」という「不正確な自分」に拘る伊藤の態度を、「非科学的」と非難しているようである。でも、町田康は「科学者」として、ものすごく強固な「超人的な自我の塊」だと思う。それに対して、伊藤比呂美アノニマスで、たんなるふつうの「無名人」が全力で生きていて、それゆえにある意味では自我というものがないのだ。そのあたりのちがいが、わたしが最近まったく町田康が読めなくなり、伊藤比呂美ばかり読んでいるのと強く関係していると思った。

それにしても町田康のこの攻撃性は何だろうね。伊藤比呂美をほぼ全否定して已まない。
 
思うに、町田康は近代的自我をもった、近代人だな。対する伊藤は、前近代人で、自我も他者も(ついでにいうと植物も)ごっちゃに溶け合っている(そのアマルガムが、伊藤のいう「自分」だ)。近代的自我と「無意識」がはっきりと分離した町田は、その「無意識」の方を駆使して作品を書くのだ。町田が伊藤を攻撃するのは、三島由紀夫深沢七郎をとても嫌ったのを思い起こさせる。もっとも、三島はまさに近代的自我だけで書いたのに対し、町田は「無意識」で書くのだが。上で書いたことを応用すれば、町田は象徴の機能とその運動性だけで文章は構成できるし、それ以外あり得ないと思っているのに対し、伊藤は「象徴の残余物」という「文学の神秘」を手放さない。町田には、その伊藤のアノニマスな「宗教性のようなもの」が、近代人として認められないのである。
 
敢ていえば、その「象徴の残余物」に詩は宿るのである。
 

 
夜。
読み返していた、河合隼雄先生と中沢さんの『ブッダの夢』を読み終える。この人たち、ほんとにバカそのものだなあ。かしこい人たちからバカにされる筈だ。わたしなんかはまだバカになろうとするところがあって、ナチュラルにバカそのものではなく、つまりはまだまだということだ。