岐阜県美術館へ

日曜日。晴。
 
ぼーっとする。ふー、結構たいへんだ。
 
昼。暑い。
次の予約が入っている本を返却するため、県図書館へ。借り直すの以外で借りた本は、ちくま新書の『東北史講義』(全二冊)、赤坂憲雄さんの『災間に生かされて』、黒川創さんの『世界を文学でどう描けるか』、『吉本隆明全集26』、柳田由紀子という人の『宿無し弘文』など。最後の『宿無し弘文』は、スティーブ・ジョブズと関係のあった乙川弘文という禅僧についての本、らしい。
 
ついでに岐阜県美術館に寄る。常設展の他、「没後20年 細江光洋展」がおもしろかった。細江光洋(1920-2003)は飛騨高山出身の写真家で、飛騨の姿を生涯撮り続けたという。近代化以前の山奥の人々の暮らしが、息づいている写真ばかりで、少なからぬ感銘を受けた。かつての田舎の人たちの姿は確かに泥くさく、素朴で、お世辞にも美しいとはいえないが、見ていると、わたしたちは高度に文明化して、人工的な、ひどい顔になってしまったなと思わされた。
 それから、「令和五年度 岐阜県青少年美術展」(無料)というのがやっていて、日曜日のせいか、結構人がきていた。「青年部」(高校生)の展示を見たが、絵画、写真、書のうち、絵画が興味深かった。どれもこれも、ことごとくけばけばしいまでにカラフルで、アモルフであり、「ポストモダン・ポップ」とでも呼びたくなるようなもので、ひとつの例外もなかった。現在の岐阜の「現実」などとはある意味関係がないというか、すべてぐにゃぐにゃした「メンタルスケッチ・モディファイド」(宮沢賢治)であり、きびしい造形といったものはまるでない。手応えのある「モノ」というのがないのだ。もちろん、家族、学校、マンガ、アニメ、ゲーム、音楽、SNS(ネット環境)こそが、彼ら彼女らの「現実」なのであろう、それはたぶん、日本じゅうでそうなのだと思われる。あたかもいまの高校生たちの内臓をぶちまけたかのようで、繰り返すがじつに興味深かった。才能を感じさせる作品もたくさんあり、そして、わたしはもう「才能」とかにはほとんどうんざりしているのだなあとつくづく思った。
 
 
夜。
柳田由紀子『宿無し弘文』を読み始めたが、100ページ足らずで読み止める。悪い意味で「法師くさい」本で、嫌な匂いがぷんぷんする。
 
まさにこれ。やっぱこれでしょう笑。
youtu.be
 
エロマンガ先生』(2017)第12話(最終話)まで観る。最後サービス回みたいな感じで、中途半端だな。2期を作るつもりで、6年間そのままなのか。まああざといくらい計算された設定で、確かにおもしろかったな。結局ハーレムかっていうところだが。女の子たちのキャラデザ、作画はすばらしい。