岐阜県美術館の「ミレーから印象派への流れ」展

晴。いい天気。

スーパー。

武田砂鉄さんがあるサイトでこんなことを言っている。

異論を言わず、常に従順な姿勢でいる人は、素直なのではない。惰性なのだ。(中略)単なる従順には思考が無い。

「よく言ったぞ」にある違和感|ちくまプリマー新書|武田 砂鉄|webちくま

武田さんは最近人気のライターで、いろいろ「日本の悪しき常識」に何でも「正論」を吐いてわかりやすいが、なかなか「わかりやすい正論」というのは問題含みなのではないだろうか。武田さんが現在言論の世界で果たされていることに、どれだけ「思考がある」か、武田さんはよくよく考えた方がよいと思う。ってわたしの余計なおせっかいだろうけれど。真の思考というのは、くねくねぬるぬるしていて、ともすれば何が言いたいのかわかりにくいし、あるいは逆説的でもあるものなのだということを、わかられた方がよい。
 かつて林達夫は「反語的精神」といった。いまは、良質の「反語的精神」があまりにも少なすぎるとわたしは思う。

自由を愛する精神にとって、反語ほど魅力のあるものがまたとありましょうか。何が自由だといって、敵対者の演技を演ずること、一つのことを欲しながら、それと正反対のことをなしうるほど自由なことはない。自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆病な順応主義の示す軟弱にも堕さない。(中公文庫版『歴史の暮方』p.223-224)

もちろん、それが過ぎれば、いったい自分がどうしたいのか、わからなくなってしまう危険性はある。また、他人から理解されなくなる。しかしこの文章の続きに、そのこともしっかり指摘してあります。林達夫と比較するのは無茶かも知れないが、武田さんの単純さと比べると何というちがいだろうと、わたしはつい思ってしまう。

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昼から岐阜県美術館へ。小さな企画展「ミレーから印象派への流れ」展を見る。1100円。ミレーの名が冠されているが、少しあるだけ。あとは、ほとんどが印象派周辺の、よく知らない画家の作品で構成されていた。ところどころ、悪くはないなというのが散見されるという程度で、大したことはなかったけれど、それでも近代絵画は我々の土台だからな。観覧者は少な目だったが、若い人が目立ったという印象。
 所蔵品展は、飛騨の版画家の守洞春、また現代美術家の「不在の観測」展など、企画展の近代絵画と対比して興味深く見たが(まあ、何を見てもおもしろいのだ、わたしは)、何といっても「アボリジニの美術」を今日いちばん熱心に見ることになった。アボリジニの「現代美術家」の作品ということなのだろうが、そこらあたりは何の説明もなくわからなかった。今日他に見た、文明意識の表層近くの「個性的な」作品たちとはまったくちがう、インパクトがある。いまは使われなくなった言葉だが、ある意味「サイケデリック」とすらいいたいような感覚と、ちょっと「マンダラ」とかも呼んでみたくもなるが、ま、これは問題含みの言葉ですね。岐阜県美術館はアボリジニの「アート」を、100点以上収集しているらしい。いつか、まとめて見せてはくれないものだろうか。

美術館の隣なので、県図書館に寄る。ジェンダーとか、アンチレイシズムとか、面倒くさそうな本を借りてくる。あと、瀧口修造など。


早寝。