工学化する政治と日本型民主主義の最終形態

雨。
 
コヴァセヴィチの弾く「悲愴」ソナタ ソナタ第九番 ソナタ第十番
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏は東京クヮルテット(NMLCD)。
スカルラッティのソナタ集
 
昼から雨の中、イオンモール扶桑へ。江南のお囲い堤ロードの緑のトンネルが、雨に濡れて美しい。今日はグレン・グールドの弾くイギリス組曲を聴きながら。
 ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルフルーツ 北海道産メロン+ブレンドコーヒー473円。『コレクション瀧口修造2』「16の横顔」を読み終えて、「画家の沈黙の部分」に入る。これでようやく本書は半分くらいか。いつもとはちがった意味で、沈黙すべきであると思うが、まあわたしはいい加減な人間なので。そのうち行きたい「ミロ展」の、よい取っ掛かりとなる文章。岐阜県美術館が蒐めているルドン。たぶんわたしのひとつも観たことのない、イサム・ノグチ。なぜかポピュラー的な人気があるようにも見える、解き難い謎多きクレー。瀧口は何度も慎重に保留しつつ、クレーの画に「怒り」のようなものを見ている。

瀧口修造という迷宮は、いったいどこへ通じているのか。一時代のモダン(現代)美術の全領域を修めながら、深い夢の世界の奥に通路は消えていっている。わたしの見えるのはそこまでだ。
 
イギリス組曲第四番
 

 
夜。
アイザイア・バーリンの論文「マキアヴェッリの独創性」を読んだ。あいかわらずバーリン、めっちゃおもしろい。何故マキアヴェッリは、後世を混乱させ、あるいは憤激させるのか。何故マキアヴェッリは、これほど論争的であり、多様に解釈されるのか。バーリンのアプローチはおもしろい。わたしの理解したところでいえば、政治に必要なものは「異教的」ロジックであり、それはキリスト教的倫理と両立しない、むしろキリスト教的倫理を破壊する、という含蓄、それがマキアヴェッリの被る憤激の原因である、と。それはマキアヴェッリキリスト教を否定したということではない。個人の倫理的理想は、別にキリスト教的であってよい。我々は個人として、立派な、よき人であってよい。しかし、それは政治とは何の関係もない、とマキアヴェッリは主張する。というのが、バーリンマキアヴェッリ理解であると、わたしは読んだのだが、まあ単純化していますかね、バーリンの主張を。
 さらに、バーリンとは関係のない、しかしこの論文を読んでいて頭に浮かんできた妄想をちょっとだけ書いておこう。結局不勉強なわたしは政治などよくわからないのであるが、どうもいまの傾向として、わたしがずっと何となく思っていた政治、つまり暴力と道徳の混淆物であるところの政治という、幼稚素朴な政治観が、通用しなくなっている感じがする。その代わりに、「技術論としての政治」という傾向が強くなっているように思える。政治観として、前者は民衆的、素朴的であり、後者は学問的であるかのような。例えば、安倍元首相だ。我々安易な民衆的には、ウソで塗り固められた、強権アベ政治というイメージであり、学者的には、学問的な技術論の理解者としての安倍元首相、というイメージが対立してはいないだろうか。学者的には、政治は「暴力による権力」ではなく、最良の解決策を淡々と実行していく「工学者の技術」であるべきと、捉えられているのではないか。そこでは、理解なき愚かな民衆の意見など有害無益であり、民衆の下手な考えは学者の役にはまったく立たない、ということになっていると思う。つまり、政治に大衆は必要なく、特権的な知識をもつ学者エリートの成果物だけが有効であり、残るのは学者による大衆の「啓蒙」以外にはない、というわけだ。そして、我々愚かな民衆は、あるいはそれを認めざるを得ないのである。これは果たして、どういう世界なのだろうか。これが日本型民主主義の最終形態である、というわけか。
 いや、バーリンから遠いところまで来てしまったが。素人の妄想である。
 追記しておくが、わたしがいいたいのは、現在政治が技術論化、工学化しているという事実云々よりも、政治とはそうあるべきだという心理圧(=「空気」)が高まってきているのではないかということである。「啓蒙」によって、そのような「空気」を醸成すること。現在において、「大衆の啓蒙」の問題こそ考えるべきであるように、わたしには思われる。「啓蒙」の道具として、例えば新書本があり、ツイッターがあるのだ。