蓮實重彦『「私小説」を読む』

晴。蒸し暑い。
 
ドラッグストア。スーパー。
 
昼食後、山下達郎の新譜『SOFTLY』CD落掌。Clementine で聴くため PC に落とす。

 
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。ハニーチュロブレンドコーヒー418円。『苦海浄土』第二部を読み続ける。750ページの半分あたりまで来たか。石牟礼さんは文明の毒、嘘、偽りを告発し続けるが、我々はそれに骨の髄まで侵されてしまったことを思う。まさに人間の終焉というしかない。自然から切り離され、人工物に塗れ切っている。豊穣な生命たちに満ちた石牟礼さんの「渚」は、死に絶えた。我々は歪んだ顔、うつろな眼をして、苦しみ続ける他ない。どこかに寄って散歩したかったが、35℃を超える酷暑では、ムリだ。運転しながら、バッハのパルティータを聴く。
 
苦海浄土』第二部「神々の村」読了。肺腑を抉られるかのよう。
 
 
第600回:今週末、参院選投開票日〜これ以上、社会が壊されないために。の巻(雨宮処凛) | マガジン9

自分自身、そんなことに憤り、ずっと声を上げてきたのに、破壊されるスピードの方が速いという現実に、時々心が折れそうになる。

 
夜。
山下達郎『SOFTLY』アルバム全曲を聴く。
 
 
蓮實重彦『「私小説」を読む』(元本1979)を一気に読了。「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」「藤枝静男論 分岐と彷徨」「安岡章太郎論 風景と変容」の三篇から成る。おもしろかった、特に「藤枝静男論」がおもしろかった。と同時にどうでもいいのだが、このどうでもいいというのが文学なのであろう。(わたしには文学がわからないが。)どうでもいいのだが、一方でおもしろい。蓮實重彦の読みが換喩によって剔抉するところは、病的ではないのにもかかわらず、どこか病的な感じがする。蓮實は文学に現れた「作家の無意識」という考え方をたぶん軽蔑していそうであるが、しかし作家の言葉の運動がどうしようもなく露呈してしまうそれは、やはりコントロールを超えた、一種の「作家の無意識」のようにも見えてしまう。そこまで「無意識」という語の意味を拡張すれば、蓮實重彦の読み取っていくのは、おそらく「作家の病的な無意識の露呈」と呼んでもいい言葉の物質性であろう。蓮實はそれを「表面」「表層」に読んでいくのであるが、それはテクストにおける表面性であって、蓮實という「読み巧者」においては表層的ではないのである。そこには蓮實重彦の全存在がかかっており、その意味で恣意的だ。それゆえにどうでもよいがおもしろい。

本書は 2022.6.4 に岐阜高島屋大垣書店にて購入したもの。