石牟礼道子自伝『葭の渚』

晴。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。セイボリーパイ チーズとチキンのトマト煮込み+ブレンドコーヒー396円。店は混んでいた。石牟礼道子さんの自伝を読む。ついに水俣病が登場。石牟礼さんは本などあまりない家に育ったけれど、特異な感受性と已むに已まれぬ表現欲のようなものが抑えきれなかったことがわかる。最初は短歌へゆくのだけれど、そのうち短歌では自分を表現しきれなくなるのだな。それから、谷川雁さんその他の人たち。
 石牟礼さん自身が述べておられることだが、『苦海浄土』は水俣病のドキュメンタリー乃至ノンフィクションではない。より奥の真実を表現するためのフィクションであり、それだからこそ文学史に残る作品になったのである。それは当然のことであるが、「ウソ」ではないのだ。むしろその反対である。

帰り、20分ほど渋滞して何だと思ったら、事故だった。


図書館から借りてきた、石牟礼道子自伝『葭(よし)の渚』読了。『苦海浄土』を執筆し始めるあたりでお終い。

…文字を読まなければ生きていけない階層と、わたしの周りにいる無学な庶民とは、言葉からしてまるで違う。そのような人たちの目に、この近代百年とはどのように映っているのだろうか。無学といっても小学校くらいは形だけ出て、自分たちのことを山学校組とか灯台組とか自称している人々の世間と、学校秀才の世界の見方はまるで質が違う。この、違和感に満ちた近代は、一度無学と思われている人たちの目で、とらえ直してみなければと、わたしは思うようになっていた。(p.328)

わたしははっきりと「学校秀才の世界」の人間であるという他なかろうが、さて、わたしの思うところではいまや「無学な庶民」という人たちがどこにいるかということである。確かに「無学」な人間はいまだって少なからずいるだろう。しかし少なくとも石牟礼さんの見たような牧歌的な庶民の世界は、とうに消滅してしまったような気もするのだ。いや、それはわたしの勘違いで、発見されるべき豊かな「庶民の世界」がいまだどこかに存在しているのだろうか。わたしが唯一思いつくのは、いわゆるヤンキーの世界くらいのものであるが。それは確かにわたしの知らない世界である。

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

どうでもよいが、石牟礼さんは「葭」(ヨシ)と「葦」(アシ)を区別しておられるが、わたしは同じものだと思っていたのだけれど。つまり、「アシ」は「悪し」に通じるので、「良し」と言い換えたものだと。

note.mu三中先生の日記からたどり着いた note。ネットで(素人に)見当違いの評価をされて、もう本を書く前向きの気力がわいてこないという話。また、池内紀ヒトラーの時代』の誤りは擁護しないが、池内さんの気持ちを深く忖度しておられる。結局、SNS って何だろうとわたしも思うのだ。わたしも note の執筆者と同じく、ツイッターをあまり好まない。あれ、皆んなどういうつもりでやっているのだろう。わたしは、あそこに現れているのこそが現代の「庶民」だと考えている。では、SNS をやっていない人たちは何なのか。ネットに一切出てこない人たち。それとも、可視化されていないかかる人たちこそが「庶民」なのか?
 

https://earth.nullschool.net/jp/#current/wind/surface/level/orthographic=-222.53,39.99,2236/loc=139.364,35.716
地球シミュレータとでもいうのかな。すごくきれいですね。

yasuyuki-iida.hatenablog.comほお、ポピュリズムについて飯田先生もそういうお考えですか。共感いたします。わたしは「ポピュリズム」は「大衆迎合主義」と訳すより、「反エスタブリッシュ主義」と訳する方がミスリードしにくいという意見(松尾匡先生のだったかな)に賛成です。ここで紹介されている新書本は、読んでみようかな。