河出世界文学全集版『苦海浄土』

早起き。起きたときは曇っていたが、しばらくして一時的に激しく降る。気温は低めで、却って冷房が効かない。

精神の柔軟を求めるということは、心の不安定を避けることはできない。なかなかに死んでいてぶっ倒れている。心には底がなく、これで最終的安定ということがない。

スーパー。いつも同じ魚しか売っておらず、うんざりして牛肉の塊にする。
ひさしぶりにポイントを使ったら 4000円も返ってきてうれしい笑。


昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー440円。40年にわたって書き継がれた、石牟礼道子苦海浄土』読了。入手しやすい文庫本は、いわゆる第一部のみ収録されており、多くの人はこれだけしか読んでおるまい。わたしは河出書房の世界文学全集版を、図書館から借りてきて何とか読んだ。『苦海浄土』というと、第一部の杢太郎少年の話のような、何というかイモムシのような悲惨な水俣病患者の描写が有名で、そういうイメージで語られているような気がするが(よくは知らない)、特に第二部、第三部は、そういうものとはだいぶちがう。どちらかといえば、患者たちと「チッソ」の一種のコミュニケーションというか、ディスコミュニケーションの実態が繰り返し延々と描かれている。単純に、ヒューマニズム的「感動」をもたらすようなものではない。わたしはといえば、正直言って読むのがたいへんであった。石牟礼さんの想像力は、患者側の「神話的世界」のような原初性のみならず、「チッソ」の論理の中へも入り込んでいって、近代的ロジックの世界を内側から告発する。わたしの想像力はとても患者側の原初性に到達し得ず、むしろ我々は「チッソ」に他ならないという、それはわたしへの告発であることを感じ取らずにはいられないのだ。ロジックをまず第一に…感情を切り捨てて…、そういう我々は、「チッソ」の論理こそ、よく理解できるのではないか。石牟礼さんが繰り返し、煩を厭わず告発するのは、繰り返すけれど、「チッソ」に他ならない我々なのだと思う。

本書を読み終えて帰ってくるとき、いつも BGM にしているピリスのモーツァルトですら、きたならしいものに感じた。わたしはこのような書物を読んで、とりあえずどうしようもないのを感じる。わたしは石牟礼さんの声の出どころまで、到底降りてゆけないなと思わずにはいない。堕落している。

ねえ君、そんな桶でいちいち水を汲んでいないで、はねつるべというものがあるじゃないか。それを使えば、ラクになるぜ。――ハハハ、いくらオレだって、はねつるべってものがあることくらい、知ってるさ。しかしね、それを使えば確かにラクにもなろうが、そうすれば、ラクになるのと引き換えに、心が機械の思考に汚染されるじゃないか。オレは、それがイヤなのさ。――やれやれ、愚かな奴だ。こういう愚か者が、人類の進歩を妨げ、民を不幸にする、その実例だな。