モブ(群衆)の「非思想」 / 『コレクション瀧口修造7』 / 「レヴェナント: 蘇えりし者」を観る

晴。
 
梶谷先生のブログからwebゲンロンに飛んで読んでいたのだが、このサイト、なかなか読み応えがあるな。また『ゲンロン』誌、読んでみるかな。
【『ゲンロン13』より】「訂正可能性の哲学2、あるいは新しい一般意志について(部分)」(抜粋)|東浩紀 - webゲンロン|考えるを育てる
東さん、やっぱり才能があるよね。すぐれた哲学者(批評家?思想家?)だと思う。
 
でも、わたしの関心があるのは、我々モブ(群衆)の「非思想」なんだと思う。無名で凡庸なモブは、いかに生きるべきなのか。いや、モブはそんなことも考えないのかも知れない、それを肯定するとして、インテリとモブの関係はどうなるのか。モブはバカだから、啓蒙されねばならないのか。モブは大して知識がないから、頭も悪いから、考えたところで専門家にかなわないし、専門家の役に立つこともない。ありがたい専門家の考えた結果を、「啓蒙」として注入されるしかないのか。
 我々モブにだって、「感情」はある。「感情」を深めるということ。論理によってとんでもないところへ至ってしまい得る専門家を、不正確な「感情」で監視すること。「感情」は、陶冶されねばならない、鍛えられなければならない。専門家が「感情」において幼稚であることは、じつはありふれている。
 

 
少し昼寝。
 
曇。昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー429円。
図書館から借りてきた、『コレクション瀧口修造7』読了。大量の展覧会評と、第四部「千円札事件」を読む。「千円札事件」とは、例の赤瀬川原平さんの「千円札裁判」のことで、困り果てた赤瀬川さんが瀧口さんのところへ持ち込み、瀧口さんが弁護の一をなしたものである(らしい)。瀧口さんの弁護は原理的方面と歴史的方面に目を配った、よく理の通った、真摯なもので、そして何かよくわからないが、感動的なところがある。瀧口さんは裁判が終結したのち(結局、赤瀬川さんは執行猶予付きの有罪が確定した)の総括で、この事件に対する美術界の無関心に驚きのような、一種の憤りを感じておられるが、わたしにはなるほどなあというものがあった。
 しかし、いまでも「芸術」というのは、別の意味でむずかしいなと思う。この頃の「美術界」は理が通っていないのだが、いまのそれ(はわたしはむろん何も知らないが)は、現代アートを見ると「理」「知」とたんなる「思いつき」に偏っており、深い感情の泉が枯れているようにも見える。ま、しかし、わたしのような無知な田舎者がそんなことをいっても、何にもなりはしないのだけれども。

 
 
ヴィンケルマン『ギリシア芸術模倣論』を読み始める。 
 
夜。
もう十月も終わりか。あっという間だな。今年もあと二箇月。一生終えるのも須臾の間だと、毎日感じている。
 
U-NEXT で「レヴェナント: 蘇えりし者」(2015)を観る。イニャリトゥ監督。2時間半と長いけれど、緊迫感があってダレずに観られた。話はかなり単純で(子供を殺された親の復讐劇)、早い段階で予想がついてそのとおりになるのだが、自然の描写が迫力があって、まあ、映画館で観た方がよかったんでしょうね。音楽は坂本龍一(とアルヴァ・ノト)。 
上でリンクしておいた東さんの論考に、「シンギュラリティ民主主義」という言葉が出てくるが、ルソーを読み込んで放たれるこの語は、さすがに鋭い。愚かな我々を高度な AI が救うというタイプの民主主義。確かに未来はこちらの方向へ進んでいく可能性が充分にあるが、それを批判するのは容易ではない、何故なら「シンギュラリティ民主主義」はじつはルソーの嫡子だからだ、と東さんはいう。まことに興味深い話である。