マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

雨。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはラファウ・ブレハッチNMLCD)。ブレハッチのバッハは結局よくわからなかったな。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏は東京Q(NML)。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二番 op.2-2 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNMLCD)。

昼まで寝る。

昼からも寝る。
重かったが、だいぶすっきりした。悪くない気分である。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十四番 op.78 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNMLCD)。■ハイドンのピアノ・ソナタ変ホ長調 Hob.XVI:52、ヘ短調 Hob.VXII:6 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。

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マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』読了。まあおもしろくないことはなかったが、さほどのものとも思えない。唯一感心したのは、そのキャッチーな題名である。これはちょっと読んでみたくなるよね。このような題名で人の気を引いてみせた才気はなかなかのものかも知れない。
 以下、一時間ほどでざっと簡単に読んだだけなので、いい加減なことを言っているかも知れない。まず、著者がなぜ「世界は存在しない」と言っているのかであるが、こんな具合だろうか。わたしもあなたも、猫も PC も世界の中に存在する。これはまちがいない。では、世界そのものはどこに存在するのか。それが世界の中に存在するとすれば、それは論理の無限後退*1を引き起こして矛盾する。ゆえに、世界は存在しない。まあそういった議論だと思う。さて、これをどう思われるだろうか。すごい、これは大発見だ、世界は存在しないのだ、と思われるであろうか。そう思われるなら、本書はあなたにとってコペルニクス的転回をもたらす、無二の哲学書ということになるであろう。ではお前はどう思うかって? さて、僕はこういう議論は、正直言ってどうでもいいですね。たんなる遊びの領域を出ないと思う。まあ下らない哲学というものはこういうものなのですが。
 これだけではあっけないので、著者は議論を強化する。そこで、「存在」というものを定義してみせる。それは「何らかの意味の場に現象すること」(p.108)だそうです。まあ、「意味」をもつものはすべて「存在」すると、簡単に言ってもそれほどまちがいではないでしょう。だから、月に住むユニコーンも、著者にとっては存在する。「月に住むユニコーン」という語は、意味作用しますからね。それゆえ、著者は自分の立場を「新しい実在論」と名づけてみせる。「実在論」は伝統的に「唯名論」と対立する概念で、ヨーロッパ中世における「普遍論争」は有名です。しかし、著者の「実在論」解釈はちょっと自分には疑問なのだが。もちろん自分は哲学はよく知らないけれども、ふつう「唯名論」というのは、個物だけが存在するので、抽象概念は実在しない、というものですね。対して、「実在論」は抽象概念も実在するという立場である。著者は「新しい実在論」の説明で、「愛」や「国家」も実在するのだといっている(p.168)が、唯名論の立場でも、日本という国家、アメリカという国家は存在するので、あくまでも「国家一般」が存在しないのでは?*2 もちろん著者は「国家一般」も「実在」するという立場であろうが、こうなるとそれはもはや事実というより、信念の問題ではなかろうか。ちょっと脱線したが、さて、「意味」をもつものは「存在する」となると、「世界」という語は明らかに意味作用するので、著者の立場とは明確に矛盾するのではないか? 著者はじつはこのことに気づいていて(p.110)、これを先ほどの「意味作用の無限後退*3」の論理で否定してみせるのであるが、自分にはこれは苦しいと思う。別に自分は「世界」の語に無限後退*4を感じないからだ。著者は「感じる!」と言い張るかもしれないが、まあそれならそれでもよいであろう。遊びなのだから好きにしたらよい。
 どうも著者は、ポストモダン哲学を何とか否定したいようだ。これが本書の根源に思える。しかし、いまやすっかり評判の落ちたポストモダン哲学であるが、論理や言説というものを突き詰めていくと、どうしてもポストモダン哲学に到達せざるを得ないのである。自分は別にポモの信奉者でも何でもないが、著者のやっていることが絶えざるメタレヴェルの構築としての哲学行為である以上、絶対にポストモダン哲学からは逃れられないのだ。というか、本書は実際のところ、ポストモダン以前の反動であり、態度の不徹底としてポストモダン哲学に断罪されてもしかたがない。別に自分には、そんなことはどうでもいいのだが、とにかくこのやり方ではダメなのである。
 さらに著者は、ポストモダン否定のため、人生には意味がある、そうでなければ我々は「知性をもった肉機械」とか、「せいぜい宗教的幻想か形而上学的幻想を抱いた殺人猿」(p.200)にすぎないこととなってしまう、などと言っている(ちなみに、「形而上学的幻想を抱いた殺人猿」というのは、ポストモダニストに対する著者なりの戯画なのでしょうね)。そして、ニヒリズムを否定し、宗教や芸術の意義を強調してみせる。やれやれである。別にそれはまちがいだとは言わないが、あくまでも自分にはだけれど、人生に意味がないというのはどちらかといえば正しいのではないか? そして、「ニヒリズムを否定し、宗教や芸術の意義を強調する」というのが、そう簡単に肯定できるものでないことが歴史的経過であったことを、著者はまったく理解していない。例えばそれは、ナチズムのスローガンでもあったのだ。ドイツ人たる著者が、そんなことがわからない筈があるまいに。現代におけるニヒリズムは、そう簡単に否定できるものではない。著者の素朴な態度は、むしろニヒリズムの(不当な)軽視に近いのである。
 まあ、まだ著者は若い。肯定的に世界(著者によればそれは存在しないそうであるが)を捉えたいという、若さの希望に満ち溢れているのであろう。それはよいのだ。自分は既にもう若くないし、現代における人間にどうしようもなく絶望している。それにしても、いまだに「神は死んだ」ことさえ知らないとは…。それが現代における出発点なのに。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

それにしても、著者が芸術を扱う際のあまりセンスのよくない(というかダサい)やり方が、著者が芸術というものをどれほど理解しているのか、どうも疑問に思わせてしまう。いや、そんなことを言うと「芸術に『理解』など、あり得るのですか」とか、叱られてしまうのであろうが。「貴族主義です!」とかね。まあ好きにしたらよい。しかし、やはり浅田さんはすごかったよなと、懐かしのスターを回顧してみたりする。にゃお。

でもまあ、以上のことそれ自体が自分にはあまり興味のもてないことなのだ。もうさ、何でいまさらこんな哲学なんぞやるのという感じ。ヘタなパズルを解いているだけじゃん。

*1:これは著者の主張そのものではないかも知れない。むしろ、「世界」の中に「世界」が存在する、それはおかしい、という、一レヴェルだけとした方が正確であろうか。まあそのあたりは自分はテキトーに言っている。適宜読み替えて下さい。

*2:同様に、僕の愛、君の愛は存在するけれど、「愛一般」は存在しない。なお、自分はどちらかと問われたら「唯名論」(これは科学の立場である)を選択するが、正直言って別に何でもよい。天使は実在かとか、つきあいきれない。「実在」云々とか、言い出したら切りがないので、例えば電子は存在するというのは大多数の人にそう思われるだろうけれども、かつて物理学徒であった自分としては、電子はきわめて抽象的な方程式以外の何物でもないと知っている(大きさすらない。まさに点である)。なので、電子が実在かといわれると、ちょっと答えを留保したくなる。まあそうなんだけれどね…みたいな。著者の態度は、自分には明快すぎるようにしか見えない。

*3:ここも「無限後退」というのは正確でないかも知れない。

*4:あるいはレヴェルの混同。