五十嵐太郎『被災地を歩きながら考えたこと』

曇。
野球をする夢を見る。全力でバットを振った爽快感が印象的だった。それから、僕が打席に立ったら、ピッチャーと自分の間に少年が立って、バットを構えたのが謎だった。かまわずピッチャーが投げて、僕がバットを振ったのだが。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、チェロはピーター・ウィスペルウェイNML)。

コダーイのチェロ・ソナチネで、チェロはマルク・コッペイ、ピアノはマタン・ポラト(NMLCD)。
 
モーツァルトのピアノ協奏曲第十三番 K.415 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。終楽章が特によかった! ■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはゲザ・アンダ、指揮はアルチェロ・ガッリエラ、フィルハーモニア管弦楽団NML)。ゲザ・アンダ、いいな。指揮は凡庸だが、ゲザ・アンダで救われている。こういうのを聴くと、少なくともクラシック音楽では、曲を活かすも殺すも演奏家次第だということが、よくわかる。

 
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。客少なし。五十嵐太郎『被災地を歩きながら考えたこと』を読み始める。力量ある建築学者による東日本大震災本。著者はわたしと同世代だ。 
図書館から借りてきた、五十嵐太郎『被災地を歩きながら考えたこと』読了。
ジュゼッペ・グレコの弾くスカルラッティ モーツァルトの変奏曲 K.398
 

 
https://news.yahoo.co.jp/articles/18b34cda734ad0b8cb8b0b1cbcd3a5d628deca45
https://news.yahoo.co.jp/articles/07da59823998e1a68ba2953820709c1fc1d50af2
対立しているな。しかし、これはここの言っているとおり、版元(講談社)の「炎上ねらい」であり、その注文どおり、見事に爆発的に炎上したことになる。わたしだって、炎上がなかったら知らなかった筈だしな。その意味で、かなり悪質といえば悪質だ、だって確信犯なのだからな。いずれにせよ、(大新聞の紙面という)公的な場所で、(特に男性による)エロティックな視線(=暴力)を許さないという「世間の空気」は、もはや確定的になったのであり、それを論理で否定することはもはやできないとわたしは思う。それから、明らかに「フェミ」を怒らせるための版元の「炎上ねらい」は、さすがに趣味が悪い。わたしは支持しない。
 なお、「世間の空気」をもちだすわたしの論法がまちがっているという意見はもちろん正しい。この「たわわ」の話でも、正しさを求めて論理で殴り合うのは、たくさんの人々がやっていることであり、それはそれで意味があると思う。
 
わたしは、異性に対するエロティックな視線は男女において非対称的だと推測している。ここでは大雑把な話だから、LGBTQとかはひとまず措いておいて欲しい(というか、わたしに論じる知識がない)。わたしは、多くの男性の女性に対するエロティックな視線は、暴力的である、あるいは暴力的に働くと言わざるを得ない。「視姦」という言葉があるくらいである。まあこれも程度はいろいろであって、わたしにしたって若いときといまではちがう。おっさんのエロい視線はキモいものであるが、わたしに限っていえば若い頃とは比較にならない穏やかさといっていいだろう。人によっては、若い男性でも女性にエロい視線を向けないかも知れない。
 わたしは女性のことはよく知らないのだが、女性の男性に対するエロティックな視線は、男性のそれのような暴力性・攻撃性を欠いているような気がする。
 わたしは、そのような男性における女性への暴力的な視線は、これまでは必要とされていたと思う。そうやって、男性は性的欲望を発動させてきたし、かつては女性もそれをそういうものだと疑問をもたなかった。しかし、いまはそういう時代ではなくなった。少なくとも公的な場所では、そのような男性の視線を女性は容認しなくなったのである。男性は、性的な欲望の発動の仕方を、変えざるを得ないようになったわけだ。ひとつの変革であろう。