アイザイア・バーリン『北方の博士 J.G.ハーマン』 / ゲーテ『イタリア紀行(上)』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第五番 K.175 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。五十年以上前の演奏か。すばらしいものは時を経ても変わらないな。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。エマーソンQ、やはりよいカルテットだな。ジュリアードQ やボロディンQ が NML であまり聴けないことを思うと、エマーソンQ の存在はありがたい。

どうでもいいけれど、またアマゾンの表記(↑)がまちがっている。「ラズモフスキー」は op.50 ではなくて、op.59 だ。まあ、いつものことで、クラシック CD の表記のまちがいとか、テキトーが多すぎる。
 
モンシロチョウなど、蝶が飛び始めた。
 
谷沢永一さんはかつて『紙つぶて』を愛読したこともあるので、disりたいわけではないのだが、この人は「言葉以前」の存在に対するはっきりとした洞察をもたなかったと思う。結局、どうしても思想がわからなかった(これは開高健もそうだ)のはそのためだ。そして、極限的な仮想的存在である筈の(ソシュール言語学でいう)ラングを、実体視してしまうところがあった。あの人の言語に対する透明性、正確性の愛好こそは、まさにそれなのである。じつにあれは、ファナティックなレヴェルに達していたと思う。わたしはああいう「正義」の人に、つまるところ合わない。
 
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。
図書館から借りてきた、アイザイア・バーリン『北方の博士 J.G.ハーマン』読了。これまでブログのところどころに感想を撒き散らしてきたが、バーリンの描くハーマンはすばらしくおもしろいと、繰り返しておこう。じつに、ハーマンはわたしか、と思わせるに足る記述で充満している。ハーマンの反合理主義は、生命力にあふれているようだ。そして、科学や知的な体系の干からびた、生命力の乏しさが糾弾される。わたしは合理的な非合理主義者ともいえるだろうから、ハーマンとは立場としては一面で対立するかも知れないが、ハーマンの危惧したところは現在わたしが感じている隘路をぴたりと指摘しているのだ。感情の深さは擁護されねばならない。我々において矛盾は避けられない。また、人間の全一性(世界=わたし)も、擁護されねばならない。その意味で、わたしは小説家・平野啓一郎氏の「分人主義」に反対である(まじめな小説家としての平野氏は決して嫌いでないけれども)。それから、反スピノチズムも、本書を読むと我が意を得る。まったく、誰もが称賛するスピノザの、つまらなさ!
 それにしても、バーリンという人はほんとに変な学者(笑)だ。ハーマンなどという人は日本語訳がひとつもないなど、たぶん西洋でもそれほど読まれている存在とは思えないが、そんな思想家にこれほど入り込んでいくのだから。それも、ちっとも干からびた記述ではなく、とても広く繊細なパースペクティブの中、憑かれたようにハーマンに没入していく。その生きた記述自体がおもしろく、バーリンはハーマンに対して pro か con なのかよくわからないのだが、たぶん、そんなことはどうでもいいのだ。だから、本書では「結論」の部分が、どこか取ってつけたようで、いちばんおもしろくない。(ちなみに訳者あとがきはそれをさらに凡庸にしたもので、おもしろくも何ともない。)そんなところまで、バーリンはちょっとハーマンに似ているのかも知れない。
 しかし、ハーマンが日本語でまったく読めないというのは残念である。日本の西洋研究も、まだまだといえば、まだまだなのかな。日本人には、バーリンはまだ早い、というべきか。 
 
帰りにマックスバリュ。車外は22℃で、暑いなこれは。
 
 
日没前、散歩。











無意識を涵養する。
 
確かに世界は既に言葉のように分節化されている。井筒先生なら、それを「コトバ」と表記したかも知れない。しかしそのような分節化は、やはり言葉ではないのだ。というより、それを言葉で、意味で捉えた瞬間、世界そのものは失われて没落し、意味だけが残る。
 
夜。
ゲーテ『イタリア紀行(上)』読了。鈴木芳子によるすばらしい訳。ゲーテってのは、本当に気持ちのよい人だな。天性のものがあるのだろう。