こともなし

晴。

午前中、ごろごろ。

昼から県営プール。
金華山の緑。長良川の青。白い雲もくもく。夏だなあ。


ネットを見ていて、ワンコをウンコに空目した。ワンコと一緒に山へ登る、だってさ。

NML で音楽を聴く。■バッハのチェンバロ協奏曲 BWV1052 で、チェンバロは鈴木優人、バッハ・コレギウム・ジャパンNML)。この曲はバッハのカッコいい曲というとわたしのまず第一に思い浮かぶようなそれであるが、またここでは鈴木優人のチェンバロが現代的で bad ass (クソカッコいい)。これまで個人的にはグレン・グールドやマレイ・ペライアのそれのようにモダンオーケストラ+ピアノでの演奏を好んできたけれど、古楽オーケストラ+チェンバロでも、カッコいいものはカッコいいのだな。なお、鈴木優人は初めて聴いたが、わたしより10歳以上年下で、有名な鈴木雅明の息子だそうである。

ベートーヴェンピアノ三重奏曲第五番 op.70-1 で、ヴァイオリンは漆原啓子、チェロは向山佳絵子、ピアノは野平一郎(NMLCD)。

岩波文庫バーリンの「モンテスキュー」なる論文を読む。またまたバーリン、おもしろい。まったくおもしろすぎる。

モンテスキューの用心深い経験主義、法律を普遍的に適用することへの不信、人間の能力の限界に対する鋭い感覚といったものが、敢然と立ち向かっていくのは、まさにこの種の「恐るべき単純化をするひとびと」に対してであって、彼らが知的に明晰であり、道徳的に心が純潔であるからこそ、人間の行動にかんして彼らが想定した科学によって祭壇に供えられた巨大な抽象の名において、彼らはますます容易に人類を幾度となく犠牲に供したように思われたのである。(p.253)

少なくともわたしは、こんなモンテスキュー像を他で見たことがないのだが、バーリンはこう主張するのである。ここでもバーリンは、このモンテスキューのものとして描いた考え方に、賛成も反対もしていないが、というバーリンの複雑さなのだ。しかし、この像は、バーリン自身を描いたものとしても、読んでしまっていいような気がする。バーリンが複雑な人間であるがゆえに。

 
夜。
中国から資本主義と民主主義を考える – 集英社新書プラス
わたしのような不勉強な者にもひどく示唆的。中間団体、か。わたしのようにネットだけで世間と繋がっている人間は、もちろん中間団体に所属せず、既にアトム化している。そういう人間はまだまだ極一部の存在であるが、これからゆっくりと増えていくだろう。まさに、プラットフォーマーの餌食(?)だ。
 しかし、わたしのようなお気楽な人間も、いいかげんもう少し勉強しないとな。まあわたしが勉強なんかしても何にもならないんだけれど、それでもな。


IS〈インフィニット・ストラトス〉』アンコール「恋に焦がれる六重奏」を観る。1期OVA。2期も観るつもり。