こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン・ソナタ第六番 BWV1019 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはダヴィド・フレイNMLCD)。

ヘッドホンを QC35 に替えたのはよいのだが、ちょっと問題が発生。ボロボロの QC15 に比べてぐっと生々しい音になったのだが、今度は使っている安物の USB DAC のクセがものすごく気になるようになってしまった。このクセは以前から QC15 でも気になっていたのだが、まだマイルドだった。でも QC35 だと、音像の奥行きが深くなって、そのクセの汚さが耳について仕方がない。いまこれを聴いていたのだが、QC15だとわりとふくよかな音に聴こえるのに、QC35だと細部が見えすぎて、女性の(?)皺が目立つような感じとでもいうか。うーん、困る。まあ、まだ QC35 のエイジングが充分でないせいもあると思うし、そもそも USB DAC が2000円台の超安物で(それでも、Bluetooth よりはずっと魅力的な音なのだ)、ヘッドホンの十分の一くらいの値段なので、釣り合っていないことが大きいだろう。仕方がないのでもう少しクラスの高い USB DAC を注文してみたが、どういうものだろうね。
 特にピアノの音が気になる。へんな話だが、一流ピアニストだとあまり気にならない。むしろ QC15 よりぐいぐい惹き込まれるのだが、二流三流ピアニスト(といっても世界レヴェルで見てですよ)だと覿面だ。いや、そういうものなのかも知れないが。オーケストラだと、明らかに前よりよい音。

■バッハのフランス組曲第六番 BWV817 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。


ごろごろ。

部屋掃除。十二月なので、溜まっていた書類も整理した。

第12回 善が偽装(ぎそう)された世界に生まれたあなたへ|十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス|鳥羽 和久|webちくま(1/2)
おっしゃるとおり。しかしこういうくらいなら、この人が「悪」として子供たちの前に立ちはだかれればいちばんよいような気もするが、自分に引き付けて考えればまあそれはなかなかむずかしいよね。こうやって、現在の社会システムはクソ、君たちは気の毒だね、でも気持ちはわかるよ、僕という大人は君たち子供の味方だといってやるのが精一杯なのか知らん。自分はというと、自分のことをわかってくれる大人なんて、いなかった気がするけれど。

僕は老年が近くなったいまでも、まだまだ未熟で自分のことすらいまだによくわからない。この人のように立派なことを子供たちに言ってやることもできず、とても子供たちのことをかまってやれるような余裕もない。しかし、いきなり大きなことを云うようだが、地球というシステムが壊れそうになっているいま、ボクチャンタチカワイソーダネーなどといっている暇なんてあるのだろうかね。どうしたらいいんだろ、ほんと。とりあえず、子供たちなんて放っておけよ、とも思うんだが。
 子供なんてそんなに構わなくったって、大人を反面教師にして逞しく育っていくよ。子供に構いすぎなんだよ、いまは。って自分の子供のいない独り身のおっさんが、無責任に思うのでありますけれども。

P丸様。の「ちきゅう大爆発」MV視聴した。まったく日本人ってのは笑

伊藤比呂美『木霊草霊』を読み始める。伊藤比呂美は原始人だ。本書では植物と交感し、その生き様死に様に心を震わせている。
 花というものは性器だ、剥き出しの性器だから、花はあんまり好きではないというようなことを書いたのは澁澤龍彦である。さて好きでないかはわからないが、伊藤比呂美も花は性器であることをよく知っている。そして植物のふてぶてしい生命力に、ビンビンとエロスを感じている。原始人といった所以である。
 本書の中に、家族で愛していた、そこいら近所の或る大きな樹が切られてしまって、なんともやるせない気持ちになってしまうという話がある。読んで思わず胸にきた。わたしも樹を殺すのは苦手で、わたしの家にある何本かの檜も、わたしが生きているうちか、死んだあとに、この家を壊すときに切られねばならぬだろうことを思うと、いまからつらい感じがしないでもない。それは措いても、近所の大きな樹が、他の家の迷惑になるという理由で、一本また一本と順に切られていくのを見ていると、さみしい気持ちになる。それは感傷というよりも、ひとつの痛みであるが、もはやそういう感情も下らぬ感傷に分類されてしまうのかも知れない。鎮守の森の樹も、道路などのために平気で切られる時代であるからな。
 そうそう、2000年を超えて生きてきた「シャーマン将軍」と呼ばれる巨大な杉に出会った話もあったな。伊藤さんは、その偉容に自分の存在など粉微塵になってしまったようだと書いている。
 わたしの家の近所には次々と新しい家が建ち、若い家族が住むようになっているが、どれもこれも見事に共通しているのが、敷地に樹も花もないということだ。いまの若い人たちはいそがしいからな、樹や花の手入れをするヒマがないのはよくわかる。植物など、観葉植物でたくさんということだろう。インテリア、エクステリアとしての植物。時代は替わるのだ。