ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』

曇。

スーパー。

何かちとむずかしいことをここに書こうかとも思ったのだが、面倒なのでやめた笑。そのうち書くかも知れないし、書かぬかも。

昼から米屋。餃子の王将。肉屋。

老父が頂いた栗羊羹でお茶。さほど甘くなくて、栗の風味がよくしておいしかった。


ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』読了。昨日の続き。前半は屁理屈の本で、後半は自己啓発本。特に後半を読むのが苦痛だったが、本書を読んだ若い人たちが幸せになるきっかけになれば、それはそれでよいのだろう。著者は(いま風の本に限られているが)よく勉強しており、頭はすごくいいし、文章は一見論理的で読みやすく、説得力をもつようよく考えられている。議論の論拠はおおよそ常識に帰結しており、よくも悪くも徹底して掘り下げて考え抜かれている本ではない。でもまあ、本当に徹底して考える人というのは、ソクラテスのように共同体に毒ニンジンを飲まされたり、イエスのように十字架に架けられてしまったりするものだから、穏当なところに留まるというのは知恵といえばそうだ。いまの若い優秀な人のサンプルとして、なかなかよいそれであったと思う。姿勢が基本的にポジティブであるというのが利点かな。だからこそ、孤独に徹底的にネガティブを掘り下げるわたしとは相性が悪いのだろう。

しかし、道徳に理性も感情も必要っていう当たり前のところに、こうまで遠回りするのが現代だなと思った。言い換えて、道徳の「マニュアルモード」と「オートモード」なんていう言い方を採用している、そういう仕方がいまっぽい。ここでわたしのいつもの意見を書いておけば、我々現代人は深い感情を失いつつあり(幼稚化)、「冷たい」道徳、道徳の「マニュアルモード」を一貫して推奨する本書は、その例証になっていると思う。本書は、感情的に深い本ではないし、それは意図的・確信犯的なものであり、さらにいえば、こういう書き方をする以上、感情的に深くなり得ないものなのだ。さて、では「深い感情」とは何か? それは「これこれである」と概念で示すことができないし、わたしたちがもっていないものであるから、理解することの困難なそれなのである。かくして、そんなことをいうわたしは非合理主義者というレッテルを貼られてしまうだろう。

本書の恋愛講義やストア派讃、労働の肯定の論じ方はおやと思うほど幼稚であるが、しかし、ある意味で我々は「幼稚化」を避けることはできない。へんな話だが、おっさんなりにアニメを観ていてもそう思う。幼稚化は世界的なものであり、日本人はその最先端をいっているといってもよいだろう。いっておくが、わたしもまた、アニメなんぞが好きな幼稚であるのだ。ま、著者はアニメなんか観ないかな。

夜。
NML で音楽を聴く。■バッハのヴァイオリン・ソナタ第四番 BWV1017 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはダヴィド・フレイNML)。これはよい演奏。

■バッハのヴァイオリン・ソナタ第五番 BWV1018 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン、ピアノはダヴィド・フレイNML)。