芝健介『ヒトラー』

曇。

梶谷先生のブログを読んでいて、いま東さんが「訂正可能性の哲学」ということを考えているのを知った。孫引きする。

それゆえぼくはこの時代においては、逆に、何かについて中途半端に調べ、中途半端にコミットすることの価値を積極的に肯定するべきだと考えている。そのような肯定がなければ、現代人はまともに政治に向き合うことができない。僕たちはどうせすべての問題に中途半端にしかかかわることができないのだから、その条件を排除しない社会思想をきちんと立ち上げなければならないのだ(『ゲンロン12』77ページ)。

ちょっと意表を突かれた。なるほど、これはおもしろそうな話である。以前の『観光客の哲学』に関連するところもありそうだ。「ゲンロン」はたぶん購入しないだろうが、単行本化されたら是非読んでみたい。
 
スーパー。

昼寝。

芝健介『ヒトラー』読了。岩波新書新刊。さて、何について書くか。本書は全六章であり、歴史的な記述は第五章までで、最後第六章は総括の「ヒトラー像の変遷をめぐって」である。歴史的記述部分は、著者の価値判断を表には出さない、「客観的記述」に終始しているといえるだろうし、それでよいのだろう。大きく意外だったところはないが、ヒトラーの拡張主義・軍事強行路線が、ドイツの軍事力強化を最優先するあまりの経済的破綻を糊塗する、場当たり的なものであったという印象は深いものであった。計算されたものではないということである。むしろ、その場当たり的な「事態による強制」を、いかに個人的魅力と煽動力によって転化していくかがヒトラーの真骨頂であり、ドイツ軍の軍事的退潮がヒトラーのカリスマ的魅力を削いでいったのも印象的だった。
 それにしても、第六章である。戦後から現在までのヒトラーナチス像の変遷を記述しているのだが、この部分が重要であり、またわたしにはむずかしかった。この点に関する啓蒙は重要であると思うものの、我々一般的な読者には、ヒトラーナチスの「正確な評価」というものは荷が重すぎる感じがする。いったい、我々には本書第六章を正確に読み取ることすら、容易ではあるまい(これは、著者の記述がいたずらに難解といいたいわけではない)。必要とされる関係知識が、あまりにも膨大すぎるのだ。よく、「事実を知って自分で考えることが大切」といわれるが、言うは易しなのだとあらためて思う。我々個人の中における「ヒトラー像」が重要であるとともに、さらに歴史的・社会的視野の広さ・深さが必要とされる。そんなことが、誰にでも可能なのだろうか。

我々一般人にとって啓蒙とは何なのかということが、ここでもクローズアップされてくる。個々人が、あまりにも知的であることを要請されているのだ。

早寝。