濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』

晴。

濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』読了。副題「正社員体制の矛盾と転機」。承前。第四章「労働時間」、第五章「メンバーシップの周縁地帯」、第六章「社員組合のパラドックス」を読む。さて、何を書いたらよいか混沌としているが、ここでも簡潔にいくことにしよう。全体としては、日本の雇用形態の矛盾がこれでもかと記述してあって、ヤメテクレーと悲鳴を挙げたくなったというのが正直なところである。
 今日読んだところでは、とりわけ日本における労働時間の扱いの慣行が、印象的だった。2018年の「働き方改革関連法」成立以前には、労働時間の上限規制というのは日本にはなかったというのである。では、週40時間まで、とかいうのは何だったかといえば、それ以上働かせれば、残業代を支払わねばならぬというものだったということだ。実際に会社で働いている人には当たり前なのであろうが、何せわたしは「会社」というところで働いたことがないので、そんなこともわからなかったのである。それじゃ、「過労死」なんてのが生ずるのも、無理はない。それで、会社も「過労死」が起きないよう、対策を求められるようになったのだが、これがまた、社員の健康の管理というもので、今度は会社のパターナリズムを助長することになるという。会社と労働者の立場が、対称的でなくなるということだ。外国ならば、自分の健康は自分で管理しろ、で終わってしまう筈であり、その代わり(というのも何だが)会社が労働者を働かせてよい労働時間の上限は、しっかりと決まっている。根本的に、日本では、健康・命の問題なのに労働時間の規制にいかず、残業代の支払いの問題にすり替わってしまっている、と。ねじれている。
 あとは、よく報道される外国人労働者の問題も、日本の雇用形態と深く結び付いているのだった。この他にも、女性の生き方の問題、さらには少子化の問題など、日本の雇用形態の特殊性で解ける(いや、それを考えないと解けない)問題が、この国にはたくさんあるということが本書を読んでよくわかった。まったく、こういう本をきちんとした啓蒙書と呼ぶのだと思う。世の無学なヒョーロンカや「学者」先生たちも、本書から多くを学ぶ余地があるだろう。
 書かずもがななことを書いておけば、本書は読んで暗澹としてよい本なのか、わたしは知らないが、わたしはかなり暗澹とした読後感をもった。わたしは日本に何らかの特殊性があると考えており、それは大きな世界的可能性(いまだ可能性にすぎないが)を、きわめてわずかながらもっていると考えているのであるが、本書に指摘されてあるのは、その特殊性の「非合理的な暗黒面」である。それが明確に、現在の日本人の生き方そのものを蝕んでいるところが多いことに、本書は気づかせてしまう。やはり、ある面では日本の「世界標準化」は已むを得ないのだなと思わざるを得なかった。

なお、蛇足であるが、現在の日本の労働形態は、その泉源を(昭和の戦争の)戦時下にもっている部分が少なくない、そのことを本書は何箇所かで指摘しているのが印象に残った。このことは、たぶん労働形態に限らない。昭和の戦争、また敗戦後の占領統治は、そこから随分時間が経っても、令和の現在をしてかなり規定せしめているように思う。

追記。本書にこんな記述がある。

ここに表れているのは、労働関係をお互い(引用者注:労働者と使用者のこと)に配慮し合うべき長期的かつ密接な人間関係と見るのか、それとも労務と報酬の交換という独立した個人間の取引関係と見るのかという哲学的な問題です。現行法自体が両方の思想に立脚している以上、現実の場面でそれらがぶつかるのは不思議ではないのです。(p.221)

もちろん、前者「人間関係」と見るのがメンバーシップ型的であり、後者「取引関係」と見るのがジョブ型的というわけであるが、本書は多くがこの記述の周りを回っているように思う。この二通りの「関係」は、アプリオリにどちらが正しいと決められるようなものではないだろう。どちらにも、長所短所がある筈だ。しかし、現実を見ると、メンバーシップ型というのは随分と無理が出てきてしまっている、そのことは疑えないというのが本書の通奏低音ではないか。

昼から県営プール。今日もわたしひとりで泳いでいた。何だかわからないがガラスの向こうにスーツを着たおっさんたちが何人か来て、あっちを向いたりプールの方を覗き込んだりしており、職員の人が対応していた。県の視察でもあったのか知らん。
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いい天気であたりがあんまり美しいので、テキトーに撮ってみた。帰りもそこはかとない幸福感を抱いて運転していた。


夜はどうでもいいことをしていた。