松長有慶『空海』 / ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』

曇。
昨晩は中沢さんと坂本龍一さんの対談集『縄文聖地巡礼』(2010)を半分くらい読み返して寝た。強烈な印象。やはり、別の、強力な回路を作っていくというのは大事だ。わたしたちは、本質的に新しいことのない中で、新しいように見える情報をぐるぐる回しているだけだ。エンジンは資本主義。本書にもあったが、いま、世界は等価交換で廻っている。そのために、媒体であり、ただの道具である筈の貨幣の存在が、我々のすべての中心になってしまっている(インテリが考えているのも、貨幣のことばかりだ。経済学!)。もちろんそんなことは初歩の初歩だが、それにもかかわらず我々はこれを無効化できていない。しかし、世界の始まりは等価交換ではなかったのだ。ここで「縄文」といっているのは、そのことである。
 
しかしねー、昔からそう思っているけれど、寝る前に何をするかは結構大切ですよ。このところ、アニメを観たり、ネットをだらだら閲覧したり、そんなので寝ていたからなー。まあそれも必要だけれど、端的に寝覚めがちがってしようがない。
 
 
スーパー。肉屋。
 
昼、驟雨。
松長有慶『空海』読了。

 
夜。
ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』表題論文を読む。肝心の資本主義の誕生については、残念ながらわたしの能力を超えているな。資本主義は1450年から1650年のどこかでヨーロッパにおいて成立したが、その時点でどうして「資本の循環」(蓄積された資本の再投資という循環的過程)が軌道に乗ったかという説明となると、本書の記述は抽象的で、わたしにはわかりにくい。
 わたしにわかるのは、どうでもいいといえばどうでもいいことで、それはウォーラーステインが、資本主義というバカげたシステムが成立してしまったのは決して必然ではなく、将来それは崩壊するであろうし、崩壊させねばならないと明らかに考えていることだ。まあ、マルクス主義者ではないようだが、左翼なのですね。この論文が書かれたのはソ連崩壊以前であるようで(書かれた年代をきちんと表記しておくべきだと思う)、ウォーラーステインソ連を評価していないが、現在の高度に洗練されたグローバル資本主義一強という状態もまだ見えていなかったのだと思う。いや、それはわたしの妄想だが、資本主義のオルタナティブなど現在では考えられないというわたしのペシミズムは、少なくともここでのウォーラーステインには無用のようだ。
 それにしても、第三章の「真理はアヘンである」という題名なども、じつに皮肉っぽい。確かに、西洋の普遍主義を「世界標準」にしてしまったのは、資本主義そのものである。それが必ずしも人間を幸せにしなかったというのも、まあわたしもそれには共感しないでもないが、ウォーラーステインのように手放しで普遍主義を攻撃することはちょっとできない。そもそも、ウォーラーステインの理論自体も普遍をめざしたもので、そのあたりをうまくいうのはむずかしいですよ。なかなか自己矛盾は避けられないから。 
ウォーラーステインの論文「資本主義の文明」を読み終え、本書『史的システムとしての資本主義』読了。この論文は、表題論文の最終章をさらに展開したといえるだろう。「資本主義=クソ」を主張している。また、資本主義の文明は終わりだろうともいわれている(p.260)。そうなのだろうか。わたしは、現在においてもますます資本主義が強化されていくようにしか思えないのだが。気候変動問題が仮に解決せず、この地球規模での文明が持続可能でなくなっても、たぶん資本主義は終わらないようにも思える。