言葉によって沈黙する / 『石原吉郎詩文集』

曇。

朝、風呂を洗っていたら洗い場のプラスチックの排水口の蓋を踏み抜いてしまった>< ぶっ壊したので、大阪のメーカーの窓口に連絡する。岐阜の事務所はもう生きていなかった。
電話などして、ようやくネットで在庫の最後のひとつを見つけて注文する。疲れた…。

昨日ワクチン接種した左腕は、動かすと少し痛い。大したことはないが。

昼から雨。
ごろごろ。


石原吉郎の「失語と沈黙のあいだ」「棒をのんだ話」なる文章を読む。前者はエッセイ乃至は思索、後者はフィクションであるが、いずれもひどく印象的、かつ優れたものである。特に前者が、いまのわたしの心情にぴったりだと感じずにはいなかった。実際、このような文章が、かつて他に書かれたことがあったのだろうか。「言葉を失う」ということに関して、とても正確な文章である。「言葉を失う」ということも、言葉を使って書かれざるを得ない、それゆえ、事態は急速に悪化する、と。もちろん失語においては言葉を発することはできないから、もっとも苦痛であるのは、むしろ失語が回復するときである、という。そして、失語は完全に孤独な事象であると。
 現在にあって言葉はすべての人に届き、あるいは誰にも届かない。「民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散させて行くだろうと思います」と石原はいう。これはまさに現代、インターネット時代のことそのままである。そこには言葉の腐食という、持続すらない。「ことばがさいげんもなく拡散し、かき消されて行くまっただなかで、私たちがなおことばをもちつづけようと思うなら、もはや沈黙によるしかない。」(p.148)わたしは一言で現在の自分の感覚を射抜かれたような気がした。現在は、ありとあらゆる言説が出揃っている。すべてのことは既に言われ、また日々言われ続けている。(そして、そういうことすらも言われているだろう。)もしそれで黙ってはいけないとすれば、言葉によって沈黙するしかない。わたしは残念なことに、まだそのアポリアを解いていない。

 
図書館から借りてきた、『石原吉郎詩文集』読了。石原吉郎はもっと読まれてよいが、まあこんなに暗いものは読まれないだろう。わたしに石原は「合う」し、よくわかる気だってするが、それにしても石原に比べた、わたしの「健康さ」よ。わたしにも虚無はあるが、石原の深くて巨大な虚無、石原本人のどうしても扱い切れなかった虚無を思うと、わたしの虚無など子供だましだという気もする。しかし、虚無の中心に自分を据えよというのは、これはわたしのやり方でもある。石原の虚無は、最終的に彼を呑み込んでしまったようにも思える。
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STEINS;GATE』最終話まで見る。