「他者」がいないわたし / 高橋源一郎『「ことば」に殺される前に』

晴。

NML で音楽を聴く。■ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」 op.24 で、ピアノはカルロ・グランテ(NML)。

Complete Variations

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かかりつけ医。スーパー。

■アーロン・アルターの「ストリング・セオリー」、コナー・ギブスの「夜の航海」で、演奏はエクス・クァルテット(NML)。

 

高橋源一郎さんの『「ことば」に殺される前に』を読み始める。源一郎さんを読んだのはひさしぶりだ。10年前の「午前0時の小説ラジオ」がメインコンテンツ。深夜のツイッターへの連続投稿である。本書の半分あまり、200ページくらいを一気に読んだ。確かにおもしろい。僕は源一郎さんをずっと信用してきた。ここでも、繊細でわけのわからない文章が並んでいる。これこそが、信頼できる物書きの特徴だ。何事においても「正解」がないとすれば、「繊細でわけのわからない文章」こそが「正解」となる筈である。高橋源一郎さんは、あいかわらずわけがわからない…、そこがよい…筈だが。
 本書の既読部分に、荒川洋治氏の引用がある。読書をする人が減ったことについて、「読書をしないのは、他人への興味がなくなったからだと思う」と荒川氏は述べているそうだ(p.183)。源一郎さんもそれに賛成する。少しむずかしい言い方で言い換えれば、他者がない、外部がないということであろう。わたしもまた、まさにその言説どおりの人間なのかも知れない。わたしはもう、それほど本は読みたくないような気がするし、ひとりで閉じ籠もって「他者」がいない。まさに、非難さるべき人間だろう、わたしは。わたしもまた、自分のことばかり考えているのかも知れない。そういや昔、小林秀雄はモノローグでダメだ、俺たちはダイアローグだからよい、という一刀両断があったっけ。
 わたしは本書を読んでいて、源一郎さんは「正解」だと思う。わたしはその「正解」に何か満たされない思いを抱いている。すばらしい「繊細でわけのわからない文章」が、わたしの空白を満たしていかない。わたしもついに、柔軟な感受性が枯れ果ててしまったのかも知れない。荒川=高橋は君たちには「他者」がいないという。わたしにもまたそれは当て嵌まるように思われるが、ではわたしはどうしたらよいのか。わたしには、本書はあまり「他者」でない感じがして仕方がない。すべて、どこかで聞いたセリフに感じる。

沈黙ということ。言葉で沈黙することは可能か。

高橋源一郎『「ことば」に殺される前に』読了。最後から二つ目の連続ツイート「祝島で考えたこと」は、リアルタイムで読んだのをよく覚えていた。その時の感銘も覚えているし、いま読み直しても感動した。老人たちだけの、原発デモが日常化した祝島。しかし、わたしが感動したのは、原発デモについてではない。ここには老人しかおらず、若者たちは島外へ流出し、先人たちが切り開いてきた田んぼは、将来原野に還っていくことが(ほぼ)確定している。子孫のためを思って開墾してきた、その土地。わたしはその何に感動したのか。ただのセンチメンタリズムであろうか。

わたしが細細と切り開き、耕してきたものも、すべて失われ、原野に還るにちがいない。そういうものなのだろうと思う。

まだまだ全然修行が足りないな。

自然。動物。

中沢さんの『野生の科学』を読み返す。螺旋の中心にグムという穴があるというのは興味深かった。中心にぐるぐると収斂していく螺旋を見たので。