吉村昭『東京の戦争』

曇。

かかりつけ医。ここでもコロナワクチンの接種が近くできるようになるらしい。
スーパー。

日本の男性は世界的に見て女性差別・男女格差の問題においてどうしようもなく頭が古いという事実があって、しかしわたしもそうだから人のことはいえないのだよなあ。「もう女性たちはそんなクソどもと結婚なんかしてやらなくて、それで日本人なんか滅べばいい」というのはもちろん意見としては極端だが、実際のところそうなりつつあるよね。まあ、穏当なところ、女性たちがしつこく声を上げていくしかないのだろうな。あとは若い世代への刷り込み。って頭のどうしようもなく古くさい孤独な独身後期おっさんが、あまり関心もなくいうのですけれども。
 話はちがうけれど、ルッキズムとかどうなんだろうね。わたしはガチガチの硬直した反ルッキズムはバカバカしいと思うけれど、でも、例えば顔に痣のある女性がいかに生きづらいかとかいわれると、うーんと唸ってしまう。マイノリティを見捨ててはいけないという原則からすれば、反ルッキズムの正当性は認めざるを得ない。ここでも、理念・言葉の問題なのだよなあ。かわいい男の子、女の子をかわいいと感じて、そういうのもいけないのか、とか。

珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒーチケットを購入。
図書館から借りてきた、吉村昭『東京の戦争』読了。静かな感銘を受ける本だった。吉村さんは生まれてから「○○事変」という戦争がほぼ切れ目なく続き、東京での戦争(空襲)が始まったとき中学三年生、終戦時十八歳で、その世代で東京において戦争を体験したことは、思ったよりめずらしい体験だったのではないかということで、本書を書いたという。つまり、戦争と共に育ち、生まれるのがあと少し早ければ戦場にいっていた、そのぎりぎりの世代ということであろう。最初は東京空襲から、あとは個人的な体験が多く書かれた、まあエッセイ集と分類されるものであろうか。吉村さんらしい、静かな抑制した文章で書かれているが、涙なくしては読めないものも幾つかあった。戦争は、つまるところ悲しいものだし、負け戦というのは特に悲しいように感じたが、わたしのようなまったく戦争を知らない世代の、正しくない感想かも知れない。庶民の戦争体験というものは、一般論というのはむずかしいのだろうけれど、いずれにせよ、戦争は人間の本性をよいところも悪いところも、剥き出しにしてしまうものなのであろう。

吉村さんの本は何冊かもっているので、以前から読んでみたいと思っているのだが、取り紛れてつい忘れてしまう。さて、どうでもよいが、人心が荒廃し、国が衰えていくのもさみしいものだなと、さほど愛国者でないわたしが、いまの自分に引き付けて何となく思ってしまうところがあった。戦争からの、余計な感慨というべきであろう。


石原吉郎詩文集』を読む。失語とは。これは日々幻想に幻想を重ねている我々にも必要なことだ。この失語の詩人の失語は、我々の試金石になるし、ならねばならない。
 「孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。」(p.95)さて、著者のシベリアで体験した壮絶な「連帯」(「人間性」を失う、極限的なものである)と「孤独」を、果たして我々は理解できるのだろうか。
 だらしなくアニメなど見てしまう、わたし。幻想を注入して、解体する繰り返し。そこに何が残るのか?