「俺ガイル」3期まで見終えて / ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』

曇。

「俺ガイル」全3期完結まで見ての簡単な感想。このお話ではインターネットは何ら特別な役割を果たしていないけれど、インターネットが空気のように当り前の時代になった世代の自己の物語だというのを強く感じた。成長しながら自己がゆっくりと形成されていく以前に、きわめて多様な意見に晒されて自意識だけがひどく膨れ上がっていくという時代。アイデンティティというものが強く意識されざるを得ない時代。比企谷にあっては、自意識が過剰すぎて言葉だけは過剰に口から出てくる。比企谷も雪ノ下も、あるのは言葉ばかりで、何が自分の本当の気持ちか、よくわからないところがある。それでも、この物語は最終的に自分たちの(かわいらしいとしか言いようのない幼い)恋愛感情にだけはウソをつかなかったということで、ここは作者もキャラクターたちも頑張った。最後のカタルシスはそれだと思う。でも、これは出発点にすぎない。この物語でキーワードになっていた「本物」というのは、自意識の過剰だけがある中で最後に頼りになる自己を見つけられることなのかなとわたしは感じたが、わたしに云わせれば、その自己も最終的には破砕して自分=世界を獲得せねばならない。それは一種の極限点にして、じつをいえばそれこそがさらに真の意味での「出発点」なのだ。そこまでは、ずっとずっと長くて遠いし、一生の仕事で、比企谷も雪ノ下も、まだまだ卵の中に小さな核を得ただけである。
 しかし、と思う。みずからに翻って、この世代に対して、このわたしはどう接していったらよいのだろうか、と。何というか、世界の逃走線の先に自閉している自己に。世界は無限に広いし、多様で、深い。彼ら彼女らはそのことを頭でよく理解しているが、それもまた狭い自閉の中でなのだ。わたしはその遠い自閉に、まだまだ入り込めないでいるのは確かである。
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ツイッターをひさしぶりに見て反吐が出る。アイデンティティなんてものはいらないけれど、それとはっきり区別して、自分というものは必要だと思わざるを得ない。誰も彼も言葉尻を捉えてめちゃくちゃに殴り合っていて、何も自分というものがない。誰も彼も、id 以外で区別がつかない。言葉があるだけだ。
 確かにシステムは大事だ。システムが人を生かしもし、殺しもするというのは本当だ。しかし、システム=言葉だけが存在する世界とは何か? 存在するのは世界=自分の筈だ。そんなことは当たり前だと冷笑してみせても、じつは本当にはわかっていないのだ。どうしてそれがわからない?

昼寝。
屋根に登って、雨樋の掃除。明日は雨だというので。

カルコス。岩波現代文庫一冊購入。あんまりお客さん、来ていなかったな。

ウチの金柑、もうほとんどおしまいだな。北側の枝に生ったのだけは辛うじて食べられるけれど、さすがに瑞々しさがね。


ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』を読み始める。第二章の途中まで読んだが、非常におもしろいので、とりあえず気づいたことをメモしておく。
 まず、本書ではいわゆる「意識」と「意識する」を明確に区別している。「意識」はおそらく consciousness で、「意識する」はそのような使い方は本書では(ここまでは)採用されておらず、「気づき」 awareness と表現されている。この区別は本質的で、第二章で言及されているのは主に「気づき」の方だ。「気づき」というのは、例えば手に何かが触れたというのに「気づく」、まさにそういう意味である。そして、脳に電気的パルスを与えて「気づき」が生じるのに、0.5秒間以上のパルス刺激の持続が必要条件であることが判明している。これは有名な発見だ。
 それから、本書で使われている「無意識」の語も、フロイト精神分析学的な意味とはだいぶちがうことも重要だ。おそらく英語では unconsciousness なのであろうが、本書では consciousness に対する unconsciousness ではなく、たんに 「awareness の欠如」の意味で使われている。つまり、脳への電気的パルス刺激は常に awareness をもらたすものではない、ということだ。しかし、脳は「無意識」には反応しているのである。
 もうひとつ。脳ではなく皮膚表面への(電気的)刺激は、直接的な脳への刺激とはどうやらかなりちがうらしい。それが awareness を引き起こすのに0.5秒間は必要なく、もっと短い時間の刺激でも可能であり、また逆に awareness を引き起こさないこともある。また、脳への直接的な刺激が手足などの反応を引き起こすことも引き起こさないこともあるが、引き起こす際、我々はその脳の部位ではなく、手足に刺激を感じるのである。これは、被験者の「内観的報告」がなければ、我々はその事実を知ることができない。逆にいえば、かかる手法によって「内観」を科学的に研究する道が開ける、ということでもある。これは驚くべきことだ。

 
ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』読了。おもしろかったので一気に読んでしまった。のーてんきな感想をほんの少しだけ述べる。awareness の生成に0.5秒間が必要というのは納得できる。awareness がなくとも(無意識での)判断と行動は存在しており、しかも awareness の発現にはタイムラグがあるというのもよい。また、意志的自発的な行動に、無意識的な脳神経プロセスが(最低でも350ミリ秒)先行しているというのも、認められる。しかし、「感覚刺激の主観的知覚は時間的に遡行してなされる」というのは、いったいどういうこと? 「遅延」ならわかるが、「遡行」? これが事実なら、「内観」というものの物理的基盤はかなり奇妙なことになるように思える。
 なお、わたしはテキトーな人間なので主義などはどうでもよいが、この問題においてはわたしは唯物論者よりはむしろ精神と物質の二元論者であり、信念的には唯心論者であろう。まあ、そのあたりは自分の理解の浅さもあって、いろいろ揺れ動いているし、どうでもいいといえばどうでもいい。個人的には、大乗仏教における「自性」の否定について、まだ理解があやふやだなと感じる(基本じゃないかって?笑)。わたしは、素朴実在論の強靭さを実感するのだ。科学者だって、日常生活では素朴実在論の立場から完全に離れることは不可能であろう。

井筒先生の『意識と本質』を読み返したくなったな。