井筒俊彦『意識の形而上学』を読み返す

晴れているが雲多し。
昧爽起床。中沢さんの『今日のミトロジー』を読む。妄想を生み出す心と真実を見る心(真如)とは同じである、妄想の中から真実を見る心が育ってくれば、妄想は消えていくから、妄想と戦う必要はない、のだと(p.157-158)。じつにシンプルで、そんなこと、皆んな知っているような話だが、常時自然にそのままであることは、やっぱり容易でない。一周廻って、もとに戻ってこなければならない。
 
井筒先生の『意識の形而上学』(中公文庫版、2001)の第一部、第二部を読み返す。きわめて明晰、クリアで、何でこれが現代哲学のスタンダードにならないか、不思議な感じがするくらいだが、まあ、わかっている、皆んなあまりにも心が妄念でいっぱいで、素直に世界が見られなくなっているだけだ。いま一般に「哲学」といわれているものなど、まず99%がその手の「妄念」に他ならない。しかし、本書の知識も、知っているだけなら「妄念」と同じことで、結局はすべて自分で実感してみることがなければ意味はない。
 仮に二元論的極限として唯物論と唯心論を措定するなら、本書のやっていることは唯心論的な立場から世界を徹底することであり、これは「実存的」な人間のあり方でいえば、究極的な真実である。本書が題材にしている『大乗起信論』は、「東洋哲学」の中でもそれを極限まで突き詰めた成果のひとつなのかも知れない。しかし、理論としては、そこにはまだまだ(物理学的な)唯物論が組み込まれていないともいえる。それはこれからの課題であり、この先500~1000年ほどかかってもおかしくない事業である。なお、(逆に)唯物論の中に唯心論を組み込んでいく作業は現在「認知科学」として進んでいるが、確実な成果としてはまだまだきわめて貧しいものしか得られていない。もっとも、AI の急速な発展がそれを進めるという感じもわたしはしている。
 なお、『大乗起信論』のアラヤ識理解を読解しているところで、そのアラヤ識が「形相的意味分節のトポス」である(p.97)とある「形相的」の語にはちょっと驚いた。ポストモダン哲学でも、存在の意味分節は「恣意的」になされることが強調されると思うが(例えば浅田さんの『構造と力』の冒頭)、それ以前に世界は(ある程度?)先験的に分節されているという考え方である。なるほど、そうでなければ人間精神の普遍性は担保されない。まあ、そのへんのことは、それほど興味があるというわけではないのだけれど。
 わたしはといえば、ほんとまだまだ未熟だ。『意識の形而上学』を頭で理解したところで、現象界でもがき苦しむことが終わったわけでもなんでもない。つまりは、まだまだ理解が浅いということだ。それには、本書第三部がおもしろそうだ。これまでに本書ではあまり理解していなかったところである。

 

 
雨が降りそうなので、樋のおかしかったところをもう一度見直す。ああ、掃除のために外していた部分がそのままだったわ。水が漏れるのは当たり前。直しておいたので、これでよい筈だ。
 
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものミックストースト+ブレンドコーヒー。
肉屋とドラッグストア。ドラッグストアでは精算したあと買ったものを置き忘れてくるところだった笑。
 
 
『意識の形而上学』第三部読了。じつに参考になる。これからも読み返すだろう。しかしまあなんと、わたしの凡庸たることよ。なお、著者もいうとおり、この第三部は厳密には「形而上学」ではない。卑近に例えれば、心の「汚さ」と「純粋さ」の二面の物語である。どんな純粋な心も堕落し得るし、反対にどんなに堕落した心も清浄さを回復することができる、そういったことをなるたけ厳密な仕方で叙述してあるわけだ。しかし、恨むらくは、ここでのレヴェルはあまりにも高すぎる。その記述の多くが、常人の感知をはるかに超えた微細な領域の話だからだ。現在、堕落の方へずっと進んでしまった我々には、これでは参考にしようがないかも知れない。それでも、ここまで堕落しても、完全に希望が失われるということは、原理的にはないわけである。希望の原理。
 
現在、アカデミズムを中心として、世界を相互に緊密に結合されたロゴス的構造体で覆い尽くそうという、恐ろしい試みが進行中である。それこそが、正義である、と。我々の必要としているのは、解体のメチエだ。もはや圧倒的に劣勢となった戦場の、どの地点に残り少ない攻撃を加え、形勢を逆転させることが可能か――そう、アニメ的中二病的にいってみる。
 

 
老父がビワの実を大量に獲ったので、またコンポートにする。種を取り除き皮を剥くだけで、灰汁(アク)で指がまっ黒け。多すぎて半分くらいで止める。
 
夜、雨。
明け方まで『お隣の天使様』と『86』を観続ける。オレもたいがいに、岡本太郎の「対極主義」だな。