フィクションの世界で受けた「傷」、物理学と哲学のわかりあえなさについて / オーウェル評論集『鯨の腹のなかで』

晴。

いまのフィクションの世界の過剰。我々の生活している世界が基本的にモダンだとすれば、そこから大きくズレている。フィクションの世界が動いているのは根底的には(「フィクションとしての死」も含む)快感原理に沿ってだ。あるいは、我々がフィクションを享受する駆動力は快感原理だといってもいい。それが、現実世界とどこかオーバーラップした、二重写しになった背景に投影されている。背景はどうしても何らかの「異世界」ということになる。仮にそれが現実世界に限りなく近く見えても、やはり「異世界」なのではないか。
 我々はフィクションの世界で受けた「傷」「裂開」(それは「感動」も含む)を現実世界で癒やす、あるいは上書きして忘れることがむずかしい。フィクションの領土が現実の領土とズレているから。その「傷」はあるいは「回路」といってもいい。それは現実世界において統合されず、ゆえに強く残存する。

心の「病」とフィクション。我々はどんな「リビドー」を溜め込んでいるのだろうな。それは何によって備給されているのか。それは確かに、そこにおいて現実世界と関係している筈である。例えば(フィクションにおける)戦い。恋愛あるいは性。コミュニケーション。能力。システムとの相互作用。世界の「謎」。しかし、現実にあっては、それらからの疎外。

スーパー。

「パンパンと夏埃はたく古書店主」ブログに詠み捨ててあったオカタケさんの俳句、なかなかよいもの。老母によると夏埃という季語は特にないらしいが、いかにも昔からの古本屋という感じがよく出ている。音の響きも。

ドクダミは強い草で繁茂するので抜くのが大変だが、花はきれい。古来、薬草として使われてきた。わたしの亡き祖父が煎じて飲んでいたのが思い出される。
20210528121355
下はウコン(鬱金)の花。ちょっとめずらしいでしょう。
20210528122117
 
食洗機から水が漏れてあたりがベタベタになる。たぶん、菜箸が下に落ちてノズルの回転を止めたためじゃないかと思うが、ちょっとわからない。


なぜすれ違うのか、すれ違っているのになぜほうっておけないのか 『科学を語るとはどういうことか 増補版』について|Web河出
『科学を語るとはどういうことか 科学者、哲学者にモノ申す 増補版』への提題|Web河出
わはは。谷村先生、完膚なきまでに「形而上学」をフルボッコにしているな。わたしも理系の端くれなので、谷村先生の仰ることはとてもよくわかる。
 しかし、谷村先生は「この私」というのがわかっておられない。結局我々は、「この私」ってものから逃れられないのである。物理学はきわめて厳密な「普遍的世界」を相手にするが、それを探求・理解するのは「この私」というこれもきわめて不安定なものなのである。我々の理解している「普遍的世界」は、自分という特殊的なものとどう関わるのか。例えば、自分が消滅しても、物理学の記述する「普遍的世界」には何の変化もないのか――この問いすら、すでに形而上学的なものであり、物理学者は(そしてわたしも)その問いに対し肯定的に応答するが、それは物理学者の(決して証明することのできない)信念にすぎない。自分=世界だから、我々は自分の「外」に出ることは絶対にできない。わたしが死ねば、わたしにとっての全世界は疑いなく消滅する。例えば谷村先生は、カントの哲学が超越論的観念論とされることをよく御存知だろう。そのカント哲学は、物理学の成功が背景にあり、物理学の世界は「物自体」とされている。科学が立脚する科学的実在論は、その観念論の忘却だといえないこともない。(そりゃ無理論法か。)
 たぶん、こんな言い方は谷村先生には通じないだろう。「内観」という言葉は微妙なので使わない方がよいかも知れないが、生きるということは「内観」から切り離せないのであり、まだまだ科学はうまく「内観」を扱うことができていない。いや、まだまだ科学は「この私」というものを扱えないといった方がよいか。そして、世界=この私なのであり、物理学的世界(それは物理理論という記号の世界である)もある意味では「この私」の「内部」にあるしかない。そう、唯心論を科学で論破することはできないとでもいえるか笑。ま、谷村先生を唯心論で論破することもできないので、だから理系と文系は永遠にわかりあえないということになるのか。さて、これでもわたしは理系なんだけどね笑。
 この問題はむずかしいので、これからもたぶん何度も語ることになるだろう。

まあ、谷村先生は哲学でもたんに「科学哲学」が特に気に入らないのかも知れない。わたしも科学哲学の多くはバカバカしいと思っている。でも、科学者は哲学、形而上学一般が気に入らないという傾向はやはりあるだろう。上はそれに対して、哲学の意義のようなものを書いてみた。

たぶん科学者のほとんどは、この本をまったく理解できないだろう。しかしもしそうであれば、それは科学者が悪いとわたしは確信している。

図書館から借りてきた、オーウェル評論集『鯨の腹のなかで』読了。この平凡社ライブラリーの四巻本、買いたくなってきたな。オーウェルという人が、わたしにとって特別な文筆家になったのを感じる。わたしらしく素朴に評すれば、前にも書いたことだけれど、オーウェルは人間としてまともなのだ。オーウェルの生きていた時代も我々の時代もひどく政治的・記号的なそれであり、そういう時代にまともであることは、ほとんど不可能なことである。何がまともなのか。わたしごときにはうまくいえないし、以前にもいえなかったが、何とかいってみるに、確かにオーウェルは両極端のいずれにも与しない。けれども、ここが大事なのだが、それは選択を回避することではない。オーウェルは必ず何かを選択するし、それゆえに無謬ではいられないだろう。そこの決断の仕方が、独特なのだ。ゆっくりと回転しながら、様々な方向から確認しながら、最後には何かを選択する。それは、リニア(直線的)な過程ではない。単純バカは、一直線に進んで穴に落ちる。そういうことをオーウェルはしないし、それがオーウェルの散文の仕方のように思える。
 巻末の鶴見俊輔氏による解説は優れたものだ。他の誰にも書けるものではない。なお、本書のエッセイ(乃至評論)はすべて訳者がちがうが(豪華である)、日本語の文体はよく統一されていて違和感がない。それから、いまのわたしにはあまり本が読みたいという気が起きないのだけれど、『ガリヴァー旅行記』(柴田元幸訳ではなく、中野好夫訳で)やケストラーの『真昼の暗黒』をひさしぶりに読み返したくなった(実際に読み直すかはわからないが)ことを付記しておこう。それくらい、オーウェルの評論が魅力的だったということ。
 さて、四巻本もあと一冊だ。

オーウェルの文章は取り立てて人を感動させようとなどしていない。オーウェルはまったくセンチメンタルでないのである。しかし、わたしはオーウェルを読んでいると、文章の何でもないところで、何故かわからず強く感動することがある。目頭が熱くなってくるのだ。わたしは確かにセンチメンタルな人間だが、それにしても不思議なことである。