こともなし

曇。
 
本日の朝日新聞朝刊の「政治季評」において、加藤典洋氏の『敗戦後論』の戦後論壇の扱いに、女性論客がほとんど登場しないことへの違和感が表明されてあった。加藤の女性の扱いに、差別的なものは感じない、また、そもそも女性論客が少なかった、と断ってのことである。また、加藤の、ハンナ・アーレントについてのジェンダーニュートラルな扱いにも違和感で、もっとアーレントの女性性を論じるべきように書いてあった。以上は、ジェンダーニュートラルでは足りない、一種のアファーマティブ・アクションこそが正義という主張であると思われるが、論文にまで適用するのは結構微妙だよね。フェミニストでも全員が賛成するかどうかはわからないのではないか。例えば、物理学の論文でも、内容にかかわらず、意図的に女性の論文を多く引用すべきであるのか。それはわたしには奇怪な感じがするけれども、まあ、文系と理系ではちがうのかも知れないし。
 

 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。シナモンリング+ブレンドコーヒー407円。シナモンリングうまかった。
武満徹著作集5』の続きを読む。「歌の翼、言葉の杖」(対談集)を読み終え、単行本未収録作品へ。後者の武満さん、極若いときの文章でも、後年と同じような「核」をもっているのを感じると共に、武満さんは生涯を通じて常に発展していった(とわたしはいいたい)人なのだとわかる。文章(思想)だけでなく、音楽もまたそうなんだよね。それは、内的必然性でもあるし、また、外部への反応でもある。武満さんは、「西洋と東洋」のように、至極大きな、深い問題と、「時代の病」の双方に、真摯に対応していった。既存の自分には、こだわらなかったのである。それなのに、何か「自分の核」(コントロールを超えたそれをこそ、わたしは「才能」と呼びたい)とでもいうものは、決して手放さなかった。それを考えても、稀有な人だったと思う。
 武満さんは、音楽でも文章でも、残したものはそれほど膨大な量ではない。そして、自分の作品に、奇妙に無頓着なところがあるし。武満さんの執着心のなさというものは、東洋的(?)であると感じざるを得ないのである。

 
帰りにカルコスに寄る。文庫本4冊購入。クセノポンの『ソクラテスの思い出』。古典新訳文庫、えらいなあ。とても利益が出ているとは思えない。河出文庫の『ガルシア=マルケス中短篇傑作選』。吉川浩満の『増補新版 人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(ちくま文庫)。多和田葉子さんの『地球にちりばめられて』(講談社文庫)は、ブログ「本はねころんで」さんに刺激を受けたもの。
いつしか、1000円を超える文庫本が当たり前になりましたな。
 

 
第615回:安倍元首相銃撃事件から4ヶ月〜じわじわと心を蝕むカルト汚染〜の巻(雨宮処凛) | マガジン9

これまでも、どれほど声をあげても変わらない中、時に「学習性無力感」に押しつぶされそうになりながら活動を続けてきた。が、今、私が直面しているのは、「学習性無力感」が裸足で逃げ出すほどの無法地帯だ。あまりにも空っぽで、論理とか整合性とかが一切通用しないカルトの世界。「政治への信頼が失われる」とか、そんなレベルをとっくに超えているのだ。

吉田秀和『時の流れのなかで』

晴。
 
自分の家計簿の整理をしていたら、午前中が終わってしまった。溜めておいたからな。
 
曇。昼から県営プール。今日は終始プールにぽつんとひとりだけで泳いでいた。あまり人の来ないプールであるが、最初から最後まで誰もいないのというのもめずらしい。
 
肉屋。TSUTAYA はマンガ返却。
マックスバリュ。もうおせちの予約が始まっていた。
 
雨ぽつりぽつり。雪虫飛ぶ。
 
今日は(上の)甥っ子のハタチの誕生日だそう。あっという間だなあ。時は矢のように飛び去る。
 
 
夜。
図書館から借りてきた、吉田秀和『時の流れのなかで』読了。承前。吉田さんも古びたし、それを愛読してきたわたしも古びた。かつての優れたものも、いまの刺激的なコンテンツの大洪水に呑み込まれ、押し流されて消えてゆく。世界を埋め尽くす膨大な数の「才能」による、よくできたコンテンツたち。現在の「ポストモダン」という状況は、いったい何なのだろうな。

吉田さんは小林秀雄の周囲にいた人たちの中で、最後に残ったひとりだった。福田和也のいうとおりね。
 
 
U-NEXTで「時をかける少女」(1983)を観る。大林宣彦監督。今日の「こころ旅」が尾道で、この映画の舞台が尾道だと老母に教えられたから、何となく観てみたわけだが、やー、マジで時代を感じましたよ。ダサすぎ、といったらいかんか、素朴というべきか。一応 SF なわけだが、CG のない時代だからね。原田知世も演技以前の「大根」だし。でも、ダサいといって、わたしの子供の頃はこんな風だったんだよねー、そのせいか、最後まで観てしまった。主題歌、超なつかしい、しっかり覚えていましたとも。若い人は最後まで観られないと思う。しかしこの作品、何度もリメイクされているのだよね。細田守監督のアニメ版とか、観てみるか。原作はもちろん筒井康隆、大昔に読んだ。
 追記。アマゾンのレヴューを見たのだが、これが何ともおもしろかった。駄作という評価から時代を代表する傑作という評価まで、幅がふれ切っている。このダサさは大林監督の意図っていったり、15歳の原田知世の魅力をいったり。なるほど、そういわれるとそんな気がしないでもない笑。

こともなし

晴。いい天気。
 
スーパー。五倍ポイントの日。謝恩券ももらった。
ぼーっとしていて、プリペイドカードをチャージしておくのを忘れたまま、レジに出してしまったな。
 
ねむい。
バッハの二声のインヴェンション 三声のシンフォニア
テレマンの無伴奏ヴァイオリンのための十二のファンタジア
 
何もせずだらけている。
 
夜。
バッハのフランス組曲第五番
 
早寝。

こともなし

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。
 
昼食にナポリタンを作る。
 
すこし曇り気味。
水着が傷んだので、イオンモール各務原の「SPORTS AUTHORITY」にて購入。それにしても、平日の昼間から、ここのイオンモールにはたくさん人がいるな。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。今日はペルーのコーヒーだって。
吉田秀和さんの『時の流れのなかで』を読み始める。「かいえ・どぅ・くりちっく」からのセレクトで、2000年に中公文庫に入ったもの。たぶん初めて読む。吉田さんが亡くなられたのは2012年か、長生きされたが、最後まで同時代最重要の(クラシック)音楽評論家だった。わたしなどは、吉田さんの著作に手取り足取りされて、音楽を聴いてきたものである。いま読んでもとにかく文章がすばらしいし(かつてはクラシック音楽を聴かないでも、その文章のよさだけで吉田さんを読む人だっていただろう)、音楽について博識かつ正確で、もうこんな人は出ないだろう。さて、片山杜秀さんは、いま吉田秀和さんのような才能が出ても、意味はあまりないだろうというようなことを書かれていたが、まあそうなのかな。確かに時代は変わり、おそろしく複雑になって、吉田さんのような全人格的教養をもった人は存在できなくなった。もはや、かつての意味での「教養」なるものが、死んだからである。吉田さんにはよい意味での「アマチュア性」があり、それがその「全人格的教養」と関係していたのだが、いまはクラシックの音楽評論も「専門化」した。そういう中で、吉田さんはどう読まれるのだろう。わたしは、まだ吉田さんを読む価値は充分にあると思うのだが。

 

 
夜。
チェンソーマン』第11巻まで読む。とりあえず完結。続きが出てもたぶん読まない。しかし、これよくアニメ化できたなあ。荒み切っている。これが累計1800万部超えの人気作だとはね。

「中二病でも恋がしたい!戀」を観る

日曜日。曇。
 
航空自衛隊岐阜基地の「航空祭」なので、朝から爆音が響いている。
 
雨。昼寝。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのレクイエム(初演復元版) K.626 で、指揮はジョン・バット、ダニーデン・コンソート 、ダニーデン・コンソート合唱団、他(NML)。

Mozart: Requiem

Mozart: Requiem

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ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NML)。 
夜。
中二病でも恋がしたい!戀」(2014)第12話(最終話)まで観る。1期もよかったけれど、それを超えてきたな。タイトル回収はこちらの2期だよね。特に七宮が登場して、一段とせつない話になった。丹生谷森夏名脇役。神アニメでした。

レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第四番 BWV1069 で、指揮はジョン・バット、ダニーデン・コンソート(NMLCD)。この曲、あんまり聴いたことがないんだな。
 
スーパー。やはり物価が上がっているのではないか。鶏肉が高くなっていてびっくりした。卵Mサイズもかつては1パック180円くらいだったのに、いまは230円もする。
 
昼。
レベッカ・ソルニットという人の『オーウェルの薔薇』という本を、新聞広告で見つけて興味を覚える。図書館に入ればいうことがないが、たぶん無理だろうし、川端康雄さんが関わっているようだから、買ってもいいかな。単行本なんて、滅多に買わなくなってしまったし。

ほお、レベッカ・ソルニットという人は全然知らなかったが(わたしは何にも知らないのである)、著名なフェミニストなのだな。オーウェルに興味をもつフェミニスト、おもしろいではないか。『説教したがる男たち』『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』、書名をどこかで見かけたような気もする。おお、両方とも図書館で読めるぞ。
 
いい天気。
図書館。上で言及したレベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を早速借りてくる。同じ棚にあった雨宮処凛さんも。新着では文庫本の森山大道、『弱いニーチェ』とやら、それから、阿部和重の新刊『ULTIMATE EDITION』がもう入っていたのには驚いた(読むかはわからない)。あとは、音楽本を4冊、これもどれだけ読むことか。
 
いい季節の土曜日なので、市民公園は家族連れでにぎわっていた。
 
 
レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』を読む。半分くらい読んだ。すばらしい本だ。エッセイ集といってもいいかも知れない。フェミニズムの本であるが、たんにそれに留まらない。フェミニズムは人生のすべてに関係しているし、人生のすべてはフェミニズムに関係している。たんにフェミニズムだけということが、あり得るのだろうか? それは貧しいし、それはニセモノだ。そして力強いが、柔軟な、静かな文体。なるほど、著者がオーウェルについての本を書いたのも、わかる気がする。よい書き手だ。すべての人間を人間として認めよ、という意味でのフェミニズム
 
ウチではオジイとオバアがいちばん働いている。カメラをもって畑をうろついているおっさん。

現代において火のエレメントは、地水火風の中で我々からもっとも縁遠いものだろう。火事とかを除いても、火のエレメントは(精神にとって)確かに危険のあるものだ。と、現代人として自然の感覚に乏しいわたしは、火のエレメントをこれ以上どう考えてよいかわからない。
 
 
図書館から借りてきた、レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』読了。いや、よい書き手を見つけたという感じ。しかし、男性がフェミニズムとつき合うというのは、むずかしいものだとあらためて感じる。わたしは過去にも書いたとおり、恥ずかしいことだが性に関して古くさい人間であり、完全に「進歩的な」男性であるということは決してできない。フェミニズム的にいえば、「有罪」である。例えばわたしはいまだに(もちろん女性の)グラビアなどを見るし、さらにはポルノだって見る人間だ。これだけで、ある種の女性からすれば完全に「アウト」であろう。
 わたしは自分に男性として「根源的な暴力性」(2022.5.14)があるのではないかと感じるし、それはおそらく少なからぬ男性もそうだろう。人を殺すのは多くが男性である。本書には「レイプ・カルチャー」への激しい糾弾があるが、それから DV にせよ、男性はなぜそんな恐ろしいことになってしまっているのか。例えば上間陽子さんの本を読むと、その凄惨な DV の現実の連続に、男性をやめたくなってしまうほどの恐ろしさがある。
 そして、ミソジニー女性嫌悪)。ミソジニーは差別とされているが、なぜミソジニーなんてことがこれほど普遍的に生じるのか。男性は女性を憎む。そういうものなのか。
 わたしはいまさらではあるが、男性におけるエロティシズムの発動のメカニズムを、我が事において考え続けている。きれい事では済まされない。フェミニズムもまた、これと向き合わねばならないのではなかろうか。
 
女性における「母性」と「娼婦性(=処女性)」の両極、これは(ある意味で陳腐なほど)普遍的に観察され、言説化されてきたが、ある種のフェミニズムはその両者とも、決して認めることができないのではあるまいか。
 
それにしても、かつて「性の解放」ということが言われ、それは進歩的立場だった筈だが、現在進歩的とされるフェミニズムは、「性の解放」にどういう態度を示すのか。何となく、いまでは両者は反対の方向を向いているようにも思える。
 

 
夜。
中二病でも恋がしたい!戀」第7話まで観る。ずっきゅん。ほろり。なんや2期めっちゃいいやん。
 
kiss×sis」(2010)第12話(最終話)まで観る。マヂ下らんアニメだった笑。OPがムダによかったのが何か悔しいわ。下らんのでよい子は視聴禁止。ましてやOAD版など!

高橋英夫『京都で、本さがし』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの管弦楽組曲第三番 BWV1068 で、指揮はジョン・バット、ダニーデン・コンソート(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはエレーヌ・グリモーNMLCD)。決してスタンダードになり得る演奏ではないが、また、グリモー以外では聴けないアプローチでもある。全力投球で力を込めた、割れそうに力強いベートーヴェン。op.110 の録音も聴いてみたくなったというのが正直なところだ。
 
昼。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十一番 op.110 で、ピアノはエレーヌ・グリモーNMLCD)。この人はちょっと「ちがう」ピアニストだな。■フランクの交響詩「アイオロスの人々」で、指揮はアンドレ・クリュイタンス、ベルギー国立管弦楽団NML)。初めて聴く曲だが、クリュイタンスの指揮はフランクにしてはあっさりしているようにも聴こえる。

■フランクの交響詩「贖罪」、交響詩「呪われた狩人」で、指揮はアンドレ・クリュイタンス、ベルギー国立管弦楽団NML)。フランクの知らない曲ばかりで、なかなかよいアルバムだったな。
 
昼寝。
 
 
図書館から借りてきた、高橋英夫『京都で、本さがし』(1999)読了。高橋さんが、我が小説家というのは大岡昇平だ、でも、結局自分は小説読みではない(とまでは明記されていないが)のように書いておられて、ああと思った。つまり、小説より評論、その手のものを好んできたということで、わたしもまったくそうだなと共感せずにはいられなかった。自分の世界を開いた存在が小林秀雄というのまで同じである、が、わたしの方はさすがに古くさすぎるけれども。そんなこんなで、わたしは高橋さんの知的世界に、ほとんどノスタルジアを感じる。ほんと、(できるなら)こういうものだけ、わたしは読んでいたかったのだなと思うのだ。高橋さんが小説読みでないというのは謙遜だが、わたしはというと、小説をこれまでたくさん読んできたけれど、いまだに文学というものがわからない。ちなみに、大岡昇平は、文庫本で手に入る限り、わたしは読んできた。『レイテ戦記』は詳細かつ膨大な戦記(にして小説家の「夢」)であるが、いまでもかなり中身を思い出せる、と思っている。

高橋さんの文章は自分については謙遜というか、控えめで、よく節度を保っている。本書の数年前に奥さんを亡くされているが、思いはよく感じられるけれど、感傷めいたことは決して直接書かれない。万事がこうした感じで、あつかましく威張っていて、なにもかもが垂れ流されているインターネットとは、だいぶちがう。わたしたちは感情の面で、よくも悪くも子供になったのだなと思わずにはいられない。
 
 
シューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、ピアノはエレーヌ・グリモー、指揮はデイヴィッド・ジンマン、ベルリン・ドイツ交響楽団NMLCD)。第一楽章いちばんの聴きどころであるカデンツァがグダグダなのがじつに惜しい。それくらい感動的な演奏だった。グリモーは瞬間に生きるタイプのピアニストで、全体的な調和とか、そういうことを聴くのではないと思う。これはどうかな、よくないという瞬間のあとに、すばらしい瞬間が来たりする。そういう意味で(のみ)、初期のアルゲリッチを、思わせないでもない。いやー、よかった。なお、ジンマンの指揮も気合が入っていて、よくグリモーのピアノに合っていた。
 
 
夜。
中二病でも恋がしたい!戀」(2014)第3話まで観る。2期。あー、これいいな。思わず笑えるところもあるし。