「SPY×FAMILY」を読む

晴。
 
クリーニング屋。スーパー。
 
ウチの山椒の実が、少しだけ採れた。
20220613124215
 
昼寝してごろごろしていたら夕方。
TSUTAYA へ行く。ここ、そのうちきっと潰れるな。いまはサブスクの時代だからね。
 
 
SPY×FAMILY』第8巻(レンタル最新巻)まで読む。いまアニメ版が人気なので、原作を読んでみた。いやあ、おもしろい。どうなるんだろ、この後。なかなかいいエンタメだよね。お互いに秘密をもった疑似家族が、本当の家族になっていくという物語だと思うが、ギャグとシリアスのバランスがいい。じんとするところがところどころにある。

 
『呪術廻戦』第18巻を読む。ひさしぶりなので話忘れてる。
『その着せ替え人形は恋をする』第1巻を読む。これもアニメが人気らしいが、へー、大胆なマンガだな。続き、読んでみるか。

「狼と香辛料II」を観る

日曜日。晴。
 
午前中、ごろごろ。
 
昼寝。
ごろごろ。
 
夕方、雨樋の掃除。
スカルラッティのソナタ集
 
NML で音楽を聴く。■イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番 op.27-1 で、ヴァイオリンはフランク・ペーター・ツィンマーマンNML)。

スクリャービンの練習曲 op.42-5, 11, 12、ピアノ・ソナタ第四番 op.30で、ピアノはスタニスラフ・ネイガウスNML)。op.42-12 とか、泣かされる。

バレンボイム平均律クラヴィーア曲集第一巻の録音(2003)をちょっとだけ聴いてみたが、どこがいいのか全然わからんな。確かに射程は大きいが、バッハに届いていないんですけど。わたしは若い頃のバレンボイムは好きだ。■尹伊桑の「礼楽(レアク)」で、指揮はハンス・ツェンダー、バーデン・バーデン&フライブルク南西ドイツ放送交響楽団NML)。
Isang Yun: Works, Vol. 8 (Live)

Isang Yun: Works, Vol. 8 (Live)

  • Internationale Isang Yun Gesellschaft e.V.
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ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはペーテル・チャバ、ピアノはジャン=フランソワ・エッセール(NML)。よい。 
バッハのオルガン小曲集
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。
 
狼と香辛料II』(2009)第12話(最終話)まで観る。最後、ちょっとわからなかったな。最近3期の制作が発表されたが、この続きになるんだろうか。古いけれど好みの作品だった。いまのと比べると随分とのんびりというか、ゆっくりしたゆるい雰囲気のアニメだったな。

『武満徹著作集3』

曇。時々パラパラと降る。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。クリームイン・マフィン アップルシナモン+ブレンドコーヒー404円。『武満徹著作集3』読了。「夢の引用」を読み終える。「夢の引用」とは、つまり映画のこと。武満さんの映画好きはよく知られており、また映画音楽をたくさん手がけていることもまた周知である。ゆたさんのブログによると、武満さんの映画音楽が新録音で出るそうだ。それにしても、わたしは武満さんの文章が好きだな。武満さんの音楽と似ているところもあるが、何か「この人は、まともな人だ」という感じが強くするのは、文章の方だ。音楽は、そういうものではないからね。「夢の引用」を読んでいて、わたしが映画についてまったく知らないことが残念になる。パソコンで DVD を観るようなことをするだろうが、それは映画体験とはたぶんちがうものなのだろう、ということは容易に想像がつく。音楽を録音で聴くといい、わたしはそんなのばかりだ。それから、わたしの観ているアニメは、たとえ「劇場版」と名がついていても、これも映画とはちがうものなのだろうと思う。

 
自分の部屋でネットを見ていると、もうブログなど書くまいと思うことがしばしばであるが、それもまた執着であろうとも毎回思うので、また意味もなくブログ日記を書いてしまう。わたしが車に乗って外へ本を読みに出かけるのは、ネットから離れるためでもあるのだろうな、だって、わたしはほぼネットだけで世間と接続しているのであるから。世間との接続は必須でもあり、またあまり好ましい体験でもない。
 
雨。
ダラダラとブログの過去記事を読み続けていたら、あっという間に夕方になる。誰も読まないブログだから、せめて自分で読んでやらないとね、かわいそうだ。結構おもしろいじゃん、ってなってる笑。
 
夜。
YouTube でダラダラと 2ch動画を観る。部屋に突然裸の美少女が現れて、それが自分に自殺しろってしつこい、って始まる 2ch の創作を観始めたら、予想外のシリアスでつらい展開に一時間以上観続けてしまい、最後はなんとかハッピーエンドで心からホッとする。って、俺まじバカじゃね笑。

猪木武徳『デモクラシーの宿命』

雨。
昧爽、ものすごい雨で一旦目覚める。滝のような雨。
 
雨上がって曇。スーパー。
 
ビワのコンポート作り。
昼食に焼きそばを作る。
 
晴。
珈琲工房ひぐち北一色店。猪木武徳『デモクラシーの宿命』を読み始める。
 
『デモクラシーの宿命』第五章まで読む。
 
夜。
図書館から借りてきた、猪木武徳『デモクラシーの宿命』(2019)読了。

『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』を拾い読み / プラトン『ゴルギアス』新訳

晴。
眠っていると、空虚、空疎。何もない、からっぽの感じ。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第三番 BWV1009 で、バロック・チェロはダーヴィト・シュトロンベルク(NML)。■ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノはスタニスラフ・ネイガウスNMLMP3 DL)。
 
肉屋。マックスバリュ
 
昼から県営プール。今日は他に人がおらず、わたしひとりで泳いでました。
ブランデンブルク協奏曲第一番、第二番、第三番
 
 
図書館から借りてきた、『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』(2021)をテキトーに拾い読みする。800ページを超えるぶ厚い単行本で、こんなの出てたのか。おもしろい。かつての福田和也は、すごい批評家だった。前にも書いたろうが、わたしは福田和也の批評のせいで、自分の中の高村薫村上龍を、完全に殺された。福田は、作家を殺すことのできる、本物の批評家だったのである。他人はどうか知らないが、ちょうどその頃から、高村薫村上龍も、作風を大きく変化させ、少なくとも売れっ子作家ではなくなった。それが福田和也のせいなのか、知らないが。
 わたしが福田和也をよく読んだのは、30代のときだと思う。いまの福田和也は、どうしているのかまったく知らない。時々出る新書本を買って、下らなさすぎて読めないだけである。本書には、デビュー間もない頃の文章が収められていて、読み返したものは、たぶんほとんどが既読であると思うが、それでもとてもおもしろかった。いま「文学」といわれているものは江藤淳だ、というのは前にも書いたことがあるが、福田和也の評論はその延長線上にあるものである。その「文学」というのは、西洋に追いつけ追い越せと明治から日本、日本人が必死にやってきた、その道程としての「文学」だ。いうまでもないと思うが、かかる「文学」はいまや完全に死んだ。福田和也の批評家としての死も、またそこにあるような気がする。もはや、フェイクですらない。そして、付け加えれば、わたしの読んできた「文学」もそういうものであり、本書を読んでみて、愛惜の情を覚えないわけにいかないのである。

いまのわたしなぞ、アニメの SAO を観て喜んでいるようなカスである。そのような救いようのない幼稚さこそ、現在避けては通れない「現実」なのだ。そうやって、「文学」を破壊すること。出口のまったく見えない中で、もがいてみせること。それに、何か意味があるのか知らないけれども。愛すべき福田和也は死んだ。これは、最初から江藤淳的な「文学」が死んだあとの世代には、とうに問題にすらならないことであろう。
 
村上春樹の小説は下らないが、そこに下らなくないもの(例えば政治、アジア、歴史、戦争など)を読み込むというのが村上春樹に対する「生産的な」批評だとされてきたように思う。けれどもわたしは、その村上の「下らなさ」ゆえに、ちょっと彼を読みたくなっている。アニメ的な幼稚さという観点からの、まさにどうでもいい村上春樹
 蓮實重彦村上春樹という作家を「結婚詐欺師的」と呼び、「心から軽蔑している」と書いたが、これもなかなか不穏な言だ。わたしには「結婚詐欺師的」の意味はよくわからないが。なお、わたしは村上の当の『女のいない男たち』に腹を立てて、途中で読み止めてしまいましたけれども。本当に下らない短篇集だった。そういう意味で、未読の長篇も読んでみたいのである。
 

 
夜。
プラトンゴルギアス』読了。古典新訳文庫の、中澤務訳。『ゴルギアス』は学生のときに、岩波文庫で読んだのだが、細部は忘れていた。この訳だと、ソクラテスの密かな怒りのようなものを、強調しているように読める。しかし正直いってソクラテスの話が技術的になってくると、理解するのが面倒になってくるという、まあ何というわたしの凡庸であろうか笑。
 題材は「弁論術」について、正であろうが不正であろうが、聴く者を言葉の力で意のままにできるというのを、それにムカつくソクラテスが渾身の力で論駁している。ソクラテスの反駁不可能な緻密な論理は、正義による圧倒的な「暴力」でもある。まさに「論破」だ。こういうソクラテスの技術は、「哲学」としていまでも脈々と受け継がれている。ネット時代、これぞ読むべき古典というべきだろう。

家族で朝日遺跡、海津木曽三川公園へ / 中村雄二郎&上野千鶴子『<人間>を超えて』

晴。いい天気。
 
もう暑くなってくる前では最後くらいかと、家族で意味もなく遊びに行ってきました。まずは愛知県清須市の、あいち朝日遺跡ミュージアムへ。ここは道路工事の際に広大な弥生遺跡が見つかり、発掘されたところで、その「朝日遺跡」は東海地方最大の弥生集落跡であるということです。ミュージアムはそこでの出土品(全体として重文指定されています)を主に展示しており、状態のよいものが多く、思っていたよりずっとおもしろかったです。ここの「村」は、弥生初期から古墳時代まで、700~800年間続いた歴史があるということで、どれくらい世代が更新したことか、民たちの暮らしぶりにまさしく思いを馳せずにはいられませんでした。

右の方はベンガラで朱く彩色された土器、真ん中はお腹に穴の開いためずらしい土器(用途はわからないですが、学芸員の方の話だと祭礼に使われたのではないかとのこと)。

すばらしい状態の磨製石斧。

きれいにお腹に穴が開いています。これは稲沢の一色青海遺跡からの出土。
発掘された極一部が、遺跡公園になっていました。
 
お昼どきになってきたので、近くのスシロー稲沢小池店にて昼食。なぜかいまひとつでした。
そこからすぐの大塚山性海寺を訪れてみようと行ったのですが、ちょうどあじさい祭りをやっていて、とても駐車場に車を入れられません。まあ、ここはやめましょうということに。
 
道の駅「立田ふれあいの里」に寄って、トイレ休憩兼買い物。


高速道路のサービスエリアや道の駅で、ツバメに寛容なのはよいですね。掃除とかめんどうになるのだろうけれど。これは、ちょうど親が子供たちにトンボを餌として与えようとしているところ。
 
木曽川を渡って、もう一度岐阜県側へ。海津の木曽三川公園を訪れました。

いい香りがするなと思ったら、この木でした。学名はメラレウカ・リナリーフォリア、英語では snow in summer というぴったりの名前で、オーストラリア原産だそう。

まさに「夏の雪」ですね。三島由紀夫に『春の雪』というのがあったが。



このあたりはかつて水害が頻発したところで、わたしが小学生のときも長良川の堤防が決壊して大洪水になったことがあります。これは「水屋」といって、水害に備えた建物。


ハンゲショウ半夏生)。いまの季節も「半夏生」と呼ぶそう(今年は七月二日が半夏生だそうです)。



きれいな声で鳴いていると思ったら、カワラヒワでした。


奥は養老山地。残念ながら川(木曽川長良川揖斐川)が眺められるよい場所がなかったのですが、とにかくいい天気で満足。すばらしい空の青と、雲の白、山の緑でした。
 

 
夜。
中村雄二郎上野千鶴子『<人間>を超えて』読了。往復書簡集。元本1989年刊。古書店均一棚にて購入したもの。上野さんは当時まだ30代で京都在住、中村雄二郎さんは、いまは一般には忘れられているかも知れない。いま読むと、じつにのんびりとして、楽天的に見える本だ。まさに、バブル経済の只中という感じもする。こんなナイーブな文章は、いまなら考えられない。

さわやかな日和

晴。きれいな青い空。
再び受験して、東大に入る夢を見る。わたしは若くて、なぜかフェミニンな感じ。自己採点してみると、国語(だったかな)と生物学がよくできていたらしい(現実の自分は、高校で生物学は履修していない)。そのあと、東京(なのだろうなあ)の町のシーンと、大学で楽しくサークル活動をするというシーンを見る。(こう書いてみると、現実の自分のまさに正反対という感じだ。)
 
今朝は起きて、何かとても気分がよい。こんなことはめずらしいが、昨晩伊藤比呂美さんを読んだせいかな。
 
スーパー。五倍ポイントの日。
至極さわやかで気持ちのよい日和。存在するだけで細胞がすみずみまで浄化されていくような感じがする。こんな日は、年に何日もない。
 
 
昼から県図書館。「新潮」誌最新号は入っていなかった。たまたまもう一度6月号を繰っていたら、蓮實重彦青山真治追悼文「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が載っていたので読む。わたしは映画について何も知らないのだが、これはよいものだった。わたしは、これまで蓮實重彦をかなり読んできたのに、じつはちっとも読めていなかったのではと疑い始める。
 「音楽の友」誌が小澤征爾特集を組んでいたので、これも手にしてみる。音楽ヒョーロンカその他による長い座談会(?)がメインだが、取り立てて大したものではなく、かつて読んだ「素人」の村上春樹の方がよっぽど小澤を、音楽を聴けていることは明らか。もっとも小澤征爾自身が、村上の耳がとんでもないことを保証しているくらいなのだけれど。

図書館敷地から、岐阜県美術館を遠望。

図書館側面。


歩いている小道は歩いて敷地の外に出られるそれなのだが、誰かが歩いているのを見たことがない。
 
図書館の隣のミスドへ寄ろうと思っていたら、ミスドの入っているスーパーが何故か定休日。スーパーに定休日とか、あるのか? 今日は「ひぐち」も休みなので、どうしようかと思い、JR岐阜駅近くのコメダ珈琲店に寄る。たっぷりブレンドコーヒー580円。借りてきた、『吉本隆明全集20』を拾い読みする。この巻は 1983-1986 ということで、ニューアカニュー・アカデミズムの略)の流行が1983年であった。中沢さんとの初遭遇(「中沢新一を真っ心で。」)があって、おもしろく読む。のちにお互いがお互いの深い理解者になるのだが、この遭遇はあまりうまくいっていない、というか、これは中沢さんが悪いよね笑。吉本さんのことを「脳軟化症」とかいっていて、これはわたしも知っていたが、初期のちょっとおっちょこちょいのところがある中沢さんだ。吉本さんの態度はとてもフェアなもので、ああ、吉本さんだなと思う。吉本さんは、全集で読むのがいい。知ることのなかった短文に、いくらでも感動的な文章が見つかる。ほんと、全集が出ているのが奇跡みたいなもんだ。

いま、詩については、できるだけ<意味>に対抗できる<無意味>の世界を、はっきりとした輪郭で作りあげられるかどうかが、じぶんの試みと関心の中心だとおもっている。過去にも未来にも頼らないところから、言葉を産出すること。そして構築された世界は強固で、しかも虚あるいは死からの像(イメージ)をもつこと。あるいは逆に、どんどん詩の言葉を喪っていく作業。そしてどこまで言葉を喪っても沈黙にならないような世界の像(イメージ)を算出すること。
『全集20』「詩について」(1985、p.419)

これはわたしの誤読かもしれないが、わたしが「言葉によって沈黙すること」といっていることと同等であると勝手に解釈している。

コメダの駐車場から、青い空を見る。右は JR の高架。
 
夜。
映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -」を観る。