『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』を拾い読み / プラトン『ゴルギアス』新訳

晴。
眠っていると、空虚、空疎。何もない、からっぽの感じ。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏チェロ組曲第三番 BWV1009 で、バロック・チェロはダーヴィト・シュトロンベルク(NML)。■ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノはスタニスラフ・ネイガウスNMLMP3 DL)。
 
肉屋。マックスバリュ
 
昼から県営プール。今日は他に人がおらず、わたしひとりで泳いでました。
ブランデンブルク協奏曲第一番、第二番、第三番
 
 
図書館から借りてきた、『福田和也コレクション1 本を読む、乱世を生きる』(2021)をテキトーに拾い読みする。800ページを超えるぶ厚い単行本で、こんなの出てたのか。おもしろい。かつての福田和也は、すごい批評家だった。前にも書いたろうが、わたしは福田和也の批評のせいで、自分の中の高村薫村上龍を、完全に殺された。福田は、作家を殺すことのできる、本物の批評家だったのである。他人はどうか知らないが、ちょうどその頃から、高村薫村上龍も、作風を大きく変化させ、少なくとも売れっ子作家ではなくなった。それが福田和也のせいなのか、知らないが。
 わたしが福田和也をよく読んだのは、30代のときだと思う。いまの福田和也は、どうしているのかまったく知らない。時々出る新書本を買って、下らなさすぎて読めないだけである。本書には、デビュー間もない頃の文章が収められていて、読み返したものは、たぶんほとんどが既読であると思うが、それでもとてもおもしろかった。いま「文学」といわれているものは江藤淳だ、というのは前にも書いたことがあるが、福田和也の評論はその延長線上にあるものである。その「文学」というのは、西洋に追いつけ追い越せと明治から日本、日本人が必死にやってきた、その道程としての「文学」だ。いうまでもないと思うが、かかる「文学」はいまや完全に死んだ。福田和也の批評家としての死も、またそこにあるような気がする。もはや、フェイクですらない。そして、付け加えれば、わたしの読んできた「文学」もそういうものであり、本書を読んでみて、愛惜の情を覚えないわけにいかないのである。

いまのわたしなぞ、アニメの SAO を観て喜んでいるようなカスである。そのような救いようのない幼稚さこそ、現在避けては通れない「現実」なのだ。そうやって、「文学」を破壊すること。出口のまったく見えない中で、もがいてみせること。それに、何か意味があるのか知らないけれども。愛すべき福田和也は死んだ。これは、最初から江藤淳的な「文学」が死んだあとの世代には、とうに問題にすらならないことであろう。
 
村上春樹の小説は下らないが、そこに下らなくないもの(例えば政治、アジア、歴史、戦争など)を読み込むというのが村上春樹に対する「生産的な」批評だとされてきたように思う。けれどもわたしは、その村上の「下らなさ」ゆえに、ちょっと彼を読みたくなっている。アニメ的な幼稚さという観点からの、まさにどうでもいい村上春樹
 蓮實重彦村上春樹という作家を「結婚詐欺師的」と呼び、「心から軽蔑している」と書いたが、これもなかなか不穏な言だ。わたしには「結婚詐欺師的」の意味はよくわからないが。なお、わたしは村上の当の『女のいない男たち』に腹を立てて、途中で読み止めてしまいましたけれども。本当に下らない短篇集だった。そういう意味で、未読の長篇も読んでみたいのである。
 

 
夜。
プラトンゴルギアス』読了。古典新訳文庫の、中澤務訳。『ゴルギアス』は学生のときに、岩波文庫で読んだのだが、細部は忘れていた。この訳だと、ソクラテスの密かな怒りのようなものを、強調しているように読める。しかし正直いってソクラテスの話が技術的になってくると、理解するのが面倒になってくるという、まあ何というわたしの凡庸であろうか笑。
 題材は「弁論術」について、正であろうが不正であろうが、聴く者を言葉の力で意のままにできるというのを、それにムカつくソクラテスが渾身の力で論駁している。ソクラテスの反駁不可能な緻密な論理は、正義による圧倒的な「暴力」でもある。まさに「論破」だ。こういうソクラテスの技術は、「哲学」としていまでも脈々と受け継がれている。ネット時代、これぞ読むべき古典というべきだろう。