暴力について / 山田稔『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』

晴。
暴力的な夢で目覚める。どういう根かわからないけれども、かなり深い感じがする。個人的なものか、集合的なものか。
 『鬼滅の刃』は全篇暴力で覆われているよね。『進撃の巨人』も『呪術廻戦』も剥き出しの激しい暴力に晒されている。この強度の大きい暴力は、確かに現代にマッチするのだと思うが、その意味はわたしにはまだよくわからない。
 ゲーム(eスポーツ)も基本的に暴力の解放といえるだろう。これは「ガス抜き」という効果もあると思う。
 自然や性もまた暴力的だ。セックスそのものが暴力に近く、DVなども性の暴力性を抜きには考えられない。(フェミニズムジェンダー学などでどう考えられるかわたしにはわからないが、男性性の性的想像力が多く暴力的であることはいうまでもない。)そう考えると、人間から暴力を消し去ることはできないのであり、また暴力の完全否定は、自然としての人間の否定ということになるだろう。と、このご時世には不穏当な結論であるが。
 たぶん、男性性が「去勢」されていくのが、これからの時代の流れになるのではないか。性のジェントリフィケーション。生の人工化も、それに親和的であると思う。それに対抗して、エンタメはますます暴力的になっていくのかも知れない。
 
わたしは、スポーツというのも暴力という側面があると思う。あるいは、暴力の代替。そもそも、ほとんどのスポーツは他人を、相手を打ち負かすために行うのであり、やるものも見るものも、それによる快感を体験するのである。「競う」ことのないスポーツは、滅多にない。自分しかやらない「スポーツ」に打ち込む人間が、はたしてどれくらい存在するものであろうか。
 
コミュニケーションは侵襲であり、その意味でこれもまた暴力的であろう。そう思うと、コミュニケーションは他者の存在の肯定であるとは限らない。
 

 
スーパー。曇。

とんとんとんとん
とんからら
にゅうにゅうにゅうにゅう
鳴きまして

 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。『コレクション瀧口修造1』の「ヨーロッパ紀行 1958」を読む。やはり、ダリやブルトンとの会見記には不思議な感動のようなものを覚える。いまや一般に、ダリもブルトンも陳腐化してしまったように、見做されているようでもあるが(よく知らない)、シュルレアリスムは既にそんなに凡庸なのであろうか。ダリが自邸で瀧口に引き合わせた老デュシャンが、「あなたの芸術……ノン!」と口ごもった瀧口に、にこにこしながら頷いていたというのは、よい図という印象を受けた。デュシャンと瀧口の交流については、この『コレクション』の他の巻でも読んだ。まあ、わたしごときの感想はここまでで止めておこう。
 
帰りに肉屋。
 
 
図書館から借りてきた、山田稔『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』読了。天野さんの詩集はきっと読んでみようと思ったら、土曜美術社の『天野忠詩集』は既に読んでいるのか。あまりよい印象を受けていないようだが、思潮社の方の『天野忠詩集』も図書館ので読んでみることにしよう。今度は、どんな感想が抱かれるか、楽しみだ。山田稔さんの筆に描かれた天野さんは、とってもイケズな京都人。わたしにはとても知り合いになりたいとは思えない。ほんものの文学というのは、凡人には厄介なものですなあ。
山田稔『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』
本書は編集工房ノアの出版に係るが、編集工房ノアはホームページも持たないのだな。徹底している、というべきなのか。
 

 
夕飯に蕗の薹の天ぷらを食う。春の味。
 
オウィディウスの「悲しみの歌」を一気に読了。詩人は後八年、突然ローマに呼び出されて裁判にかけられ、アウグストゥスによって黒海沿岸の地トミスへ流刑になる。その辺境の地での悲しみと労苦、また皇帝への嘆願を歌った詩である。邦訳で250ページほどの、長篇詩といっていいだろう。木村健治氏による本邦初訳。「蛮族」の跋扈する中での危険な暮らし、ドナウ川の氷結する冬の厳しさ、ローマにいる妻や友人たちを思い出してのつらさ、我が身を滅ぼした若い頃の詩(『恋愛術』を指す)の愚かしさなど、悲痛さが心を打つ。2000年前の詩人が、たちまち身近になったような気がする。あと、「黒海からの手紙」を読んだら、『変身物語(メタモルフォーシス)』を読み返してみようかな。

岐阜県博物館→美濃市でランプシェードを買う

晴のち曇。
 
今日は家族で外出。まずは関市の「百年公園」にある岐阜県博物館へ、企画展「岐阜の縄文世界」を見に行く。

「百年公園」にいたシジュウカラ

岐阜県博物館新館エントランス。

展示は縄文土器が主で、数はそれほど多くなかったが、なかなかよいものが選りすぐってあって堪能した。岐阜県の縄文遺跡は、飛騨地方に多いことがわかる。あの頃は日本海側の方が開けているので、富山の方とつながりが強かった飛騨地方が早く発展したのかも知れない。さても、わたしは縄文土器を見るといつも、「日本」の文化程度がいちばん高かったのは縄文時代ではなかったと思ってしまう。というのはまあ冗談まじりではあるが(そもそも縄文人=日本人という図式には問題がある)、縄文人は確かに天才だ。

これも「百年公園」で見かけた、シロハラか?
 
先日老父が寝室の照明を壊したので、照明器具購入のため、関市から岐阜市内まで戻る。たまたまスシローがあったので、お昼は回転寿しで。わたしはスシロー、結構好きなんだよねって、庶民だなあ。期間限定のマグロの握り盛り合わせなど旨く、満足する。
 すぐ隣のニトリで照明器具を見るも、あまりよさそうなのがなし。どうしようということになったが、わたしが「前に行った美濃和紙のランプシェードとか、どう」と軽い気持ちで言ったところ、いまから美濃市まで行こうということに。つーので、さっき通った国道156号をもう一度引き返し、一時間弱で美濃市中心部へ。日差しがかなり強くて車内は暑いも、外は時雨れる。
 
美濃市は昨年秋、2021.11.19 にうだつの町並みを見に訪れたばかり。そのとき入った照明器具店へ入ろうと思ったのだが、どうもコロナ関係で、土日以外は休みだった。そもそも、美濃市中心部は水曜日休みが多いようだ。がっかりしてどうしようかと思ったのだが、美濃和紙あかりアート館というのがあるらしいので、そこへ行ってみる。

これがその建物で、ちょっとわかりにくいと思うが、昭和16年の建造だそうでレトロである。ちょうど一階がミュージアムショップになっており、首尾よくこちらで美濃和紙のよいランプシェードを買うことができた。よかったなあ。
 
帰りは東海北陸自動車道で一気に各務原まで。買ったのはシェードだけなので、照明部分を買わないといけないのだが、さて、エディオン→定休日、ケーズデンキ→そんなものはありません(店員)、というので、イオンモール各務原ジョーシンに行ってみる。ここも店員は「そんなものはありません」だったのだが、商品棚を見ていたらどうもそれらしいものがあったので、「お客様の勝手にどうぞ」(店員)だったが購入して帰宅。ウチで組み立ててみたらバッチリうまくいって、部屋がなかなか高級な感じになった。ふう、まあいろいろたいへんだったが、よい一日でした。

「鬼滅の刃」を読む

曇。
梯子を外されたような気分。
 
ごろごろしている。
 
昼から雨。
BGMBGM
 
ウチの夏みかんマーマレードを作る。
 
NML で音楽を聴く。■ファジル・サイの「十一月の夜想曲」、藤倉大(1977-)の「スパークラー」、狭間美帆の組曲「イントゥー・ジ・アイズ」、佐藤芳明の「二つの楽器のための二つのカノン」、和田薫(1962-)の「巫」、作者不詳の「ニーグン」で、チェロは新倉瞳、他(NML)。

11月の夜想曲

11月の夜想曲

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夜。
鬼滅の刃』第23巻(最終巻)まで読む。いやー、最初はそれほどでもって思っていたけれど、心震える終わり方だったな。なるほど、人気が出るわけだ。ジャンプ誌作品としては、ムリに引き延ばそうとしなかったのもいいね。『進撃の巨人』や『呪術廻戦』よりは低年齢層向きだと思うけれど、エンタメとして充分力の籠った作品だったと思う。

こともなし

晴。
寝坊。
 
スーパー。
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。『コレクション瀧口修造1』の続き。「幻想絵画論」のエルンストとデュシャンの項を読む。いまはユーモアという言葉が死んでいるのでわたしはこの言葉が好きではないが、それにしてもデュシャンの事蹟を読んでいると、つい笑いたくなってしまう。ユーモラスというよりは、ファニー funny かも知れないが。ブッ飛んでいるのだ。ブルトンへの手紙で、デュシャンはこう書いているそうだ。「不信ということも、反対の信ということも私には興味がない。つまりウイとかノンとか、また無関心とも別なものがわたしにはあるのだ……」(p.182)御意。「無関心とも別」というのが、まさに皆さんわかるかなーというところだ。

 
 
帰りに肉屋。日差しはついに暑いくらい。外気は15℃。
 
 
日没前、一時間あまり散歩。今日春が来たと、認定したい。

















だいぶ歩いて鬱を散じられたかな。
 

 
夜。
ゆたさんから観るようにと指令が来たので、「けいおん!」(2009)を第2話まで観る。いや、おもしろいんだけれど、むちゃむちゃ百合くさい笑。女の子たち、あおむしみたいにふるふるしていて、つまんだらブチュと潰れて汁が飛び出そう。しかし、左京区その他の背景がときどきなつかしすぎますな。
 
 
デュシャン関係でカルージュの『独身者の機械』が読み返したくなったのだが、さて、どこにあるのやら。ウチのどこかにある筈なのだが。
 
備忘録。ロシアの戦術核だけでなく、戦略核までも戦闘態勢に入ったのか。戦術核は実際に使われる可能性が高くなったと或る専門家がいっていた。俄かには信じられんが。

こともなし

日曜日。曇。
昨晩は遅くまで、ニコニコ動画で SAO動画を観ていた。
 
昼寝。パスワードの夢を見る。わけがわからない。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンのピアノ・ソナタ第三番 op.58 で、ピアノはヤクブ・クシリック(NML)。悪くない。第18回ショパン・コンクールにおいて、小林愛実と第四位を分けたピアニストだそう。へえ、そうなのか。

ブラームスの七つの幻想曲 op.116 で、ピアノはヤクブ・クシリック(NML)。わたしにはこの曲集がよくわからなく、通して聴くことはあまりないのであるが、これはなかなかの演奏だと思った。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十三番 op.57 で、ピアノはニコライ・ルガンスキーNML)。いやー、すごかった。正攻法で、スケールが大きい。まさに「熱情ソナタ」らしい、全力投球の演奏だ。あれ、これ CD 発売前の配信ですか。ハルモニア・ムンディ、太っ腹ですな。
 
深夜まで Ruby 遊び。

こともなし

晴。
 
大垣。あまり精神の状態がよくなく、好きな運転もそんなに楽しくない。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー393円。『テヘランでロリータを読む』の続き。この本はノンフィクションで、フィクションというわけではないけれど、文学の力に少し心がほぐれる。読んでいるうち、ミスドの懐古的な BGM がこちらの感情を呼び起こしてくる。いうまでもなく、この本はいまの状況と重なるところがある。「非人間的な」状況における文学の力。この本は文学プラス何かだが、さてそれは何だろう。戦争と文学。硬直した世界と文学。「イスラム革命」と文学。「暴力と死」と文学。本書が扱っているのは、イスラムからしたら「退廃的な」文学だ。それが、何故イスラム教徒に、何らかの力を持つのか。しかし考えてみると、わたしはそういう一種の切実さをもって文学を読んだことは、(まったくないことはないのかも知れないが)あまりないようにも思える。たんなる教養? そこが、わたしの「引け目」かも知れない。

多少は回復した感じもする。
 
帰りは窓から日差しが入り込んで、暖かかった。
 
 
夕方、老母をワクチン接種会場へ送っていく。待っている間、少し歩いてみたのだが、市民公園も「学びの森」も、家族づれなどが大勢出ていた。土曜日だし、春になってきたのだなあという感じ。
 
夕食に、ウチの蕗の薹で作った蕗味噌を食べる。ほろ苦くて春の味。
 

 
夜。
山田稔さんの『北園町九十三番地』を読み始める。山田さんは天野忠の詩よりも散文が好きだとあるが、わたしは本書に引かれた詩から、天野さんの詩をむしろ読みたい。県図書館で土曜美術社と思潮社の『天野忠詩集』が読めるようだ。
 本書を読んでいると、天野さんの自宅はどうもわたしのかつての下宿から遠くない感じがするので、グーグルマップで調べてみたところ、下鴨北園町九十三番地はやはりわたしの下宿だったところからふつうに自転車で行ける範囲だった。というか、その辺にはCoCo壱番屋や牛丼の吉野家、葵書房があって、自転車でよくふらふらしていたものである。
 というところから、かつての自分の「勢力圏」(?笑)を、ストリートビューでいろいろ見回ってしまう。四半世紀経って随分変わったが、店の常連だった喫茶インペリアルがまだやっていたのには胸をつかれた。マスター、お元気なんだな。一乗寺の花梨、げんざえもん(本店は健在だった)はさすがになくなっていた。本屋は思ったより残っていて、全国的に有名になった恵文社一乗寺店はもとより、高野の大垣書店*1、下鴨北大路の葵書房もまだ健在だった。ってどうでもいいですね。でも、わたしの京都は、わたしの心の中にしか残っていないというのも本当なのだ。
 
あら、葵書房は去年いっぱいで閉店したのか。。。ここには岩波文庫があったので、よく行った。
 
いろいろ検索していたら、アニメ「けいおん!」の舞台がピンポイントでわたしのかつての「勢力圏」(叡電修学院駅付近)だったと知って驚いている。OPに出てくるらしい松ヶ崎橋、わたしのいまは無き下宿の隣じゃん。登場人物たちが、わたしの下宿の前を歩いていたのか。「けいおん!」は最初の1分で挫折したのだけれど、もう一度観てみるかなあ…。

*1:しかしわたしの居た頃は丸山書店で、24時間営業だった。近くのミスドも24時間営業でした。。。1990年代前半のことです。

一日すっきりせず

曇。
 
NML で音楽を聴く。■バッハの「二声のインヴェンション」全曲 BWV772-786 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノは田部京子、指揮は小林研一郎、日本フィルハーモニー交響楽団NML)。

 
 
スーパー。
 
昼寝。寝過ぎ。
 
しかし、ロシア軍がチェルノブイリ原発を占領して破壊したというのは、さすがに意味がわからないな。本当か? 本当なら、正気か?
やはり(日本の)ネットは囂しい。ありとあらゆる意見・感情が開陳されてある。一方で、何も起きていないように見える静かな場所もあるし、わざと関係のない、バカなことをいっている人もいる。わたしは、正直、何かいいたいともあまり思わないが、何も起きていないとも思わない。日常は続くが、こういう日常である。さても。
庭で鮮烈な味の金柑を食っていると、なべてこの世はこともなし、って感じなのだけれどな。
20220225163643
 
『葬送のフリーレン』第6巻を読む。
 
ロシアで戦争に抗議して拘束されてしまう人たちって、僕が同じ立場だったらとても真似ができない気がする。まさに命懸けだ。我々のどれくらいが、そんなことができるか。ミャンマーの軍事政権下でデモをする人たちにも、同じことを思ったが。
 
夜。
何をする気も起きないので、たまたま近くに置いてあった吉本さんの『私の「戦争論」』を再読し始めたら、ぐいぐい惹き込まれて一気に読了。吉本さんのすべてに賛成するとかよりも、ここまで徹底して考えないとダメだとつくづく思った。自分の浅はかさがよくわかる。