イヤなこと

晴。
 
松阪和夫『現代数学序説』を拾い読みしているのであるが、閉区間 [-1, 1] から開区間 (-1, 1) への全単射写像)を実際に作ってみよ、というのに詰まった。というか、これの基礎になっている命題がきちんとわかっていない。

X が無限集合、A が X のたかだか加算な部分集合で、X - A が無限集合ならば、X - A は X と対等である。(p.157。「対等」というのは、全単射写像が作れるということ)

この命題は集合が無限であることの本質をなすという。基本中の基本なんだけどなあ、エーカゲンに理解しているよ。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。アイザイア・バーリン『北方の博士 J.G.ハーマン』を読み始める。またまたバーリンによるハーマンである。今度はモノグラフだ。バーリンの描くハーマンには、ところどころ強く惹かれる記述がある。例えば、「前もって感覚のなかになかったものは、悟性のうちにもないのである」(p.45)というハーマンからの記述(わたしなら「感覚」の代わりに「感情」というだろうが)。まさしく、これほどの真理はない。本書を読んでいると、わたしの考えているのは、非合理主義をはっきりとベースにして、合理的に合理性と非合理性の結合体を記述する、そんな風にいってもいいのかなと思えてくる。(わたしのいう)非合理主義は合理主義を真部分集合として含むので、そのようなことは、少なくとも可能性としては不可能ではない。まあ、わたしの能力ではたぶん無理なのだが。

カントはハーマンのよき理解者ではなかった。しかしゲーテはハーマンから(ゲーテらしく)必要なものを受け取ったし、キルケゴールはハーマンを天才と呼んでいるそうである。
 
帰りに TSUTAYA とガソリンスタンド。個人的に感じる TSUTAYA のイラつかせられる雰囲気を、解体できるようになってきたなと思う。
 

 
備忘録。ロシア軍、ウクライナへ侵攻。プーチン大統領は暗に核兵器の使用も選択肢に入れていると脅している。素人考えでは、西側諸国が有効な対策を打てるとは思いにくい。中国も、この展開を見て大いに思うところがあるだろう。
 
しかし、日本でも既にネットでいろいろ騒いでいるのだろうな。
 

 
夜。
NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ ホ短調 BWV914、嬰ヘ短調 BWV910、ニ短調 BWV913、シェーンベルクの三つのピアノ曲 op.11、ベルクのピアノ・ソナタ op.1、ウェーベルンの「ピアノのための変奏曲」 op.27 で、ピアノはオルタンス・カルティエブレッソンNML)。まずバッハを聴いてこれはと思い、新ウィーン楽派もどれも立派な演奏で驚いた。こんなピアニストがいたのかと思ったら、既に過去に聴いて絶賛していましたよ。パリ国立高等音楽院の教授らしく、日本人も何人か指導を受けているようだが、とにかく日本語では検索に引っ掛かってこない。録音もあまりないようだ。

こともなし

祝日(天皇誕生日)。晴のち曇。
 
梅こぶ茶を飲んでだらだらする。
金柑を食う。
 
ウチのクリスマスローズ
20220223120613
 
ぼーっとする。
 
夕方、肉屋。高めの牛シャブ肉、買ったった笑。
 
鬼滅の刃』第4巻まで読む。うーん、おもしろくないことはないけれど、僕にはそんなに来ないなあ。これからおもしろくなるのかな? それともアニメがおもしろい?
炭治郎君が素直でいい子なのがよいのかなあ。いまのマンガが殺伐としているのには慣れたが。
 
夜。
鬼滅の刃』第10巻まで読む。

伊藤比呂美&町田康『ふたつの波紋』

曇。
寝坊。目が覚めたら九時で、びっくりして飛び起きた。
 
スーパー。五倍ポイントの日。
雪がちらちらしていて寒い。車のハンドルが冷たいのだ。車外は4℃。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスクラリネットソナタ第一番 op.120-1 で、クラリネットは松本健司、ピアノは横山幸雄NMLCD)。悪くない。
 
 
昼から県図書館。行きは時雨れていたと思ったら、霙になり、10分ほどは強い雪になった。そのあと、また霙混じりの雨に。バッハのパルティータを聴きながら運転する。石牟礼さんの全詩集や、みすず書房バーリンなどを借りる。
 「新潮」誌で中沢さんの「精神の考古学」第3回を読む。中沢さんは、ネパールでとうとう達人ゾクチェンパ(ゾクチェンの修行者)であるケツン先生に会う。ケツン先生に日本語で話しかけられ、あっさりとゾクチェンの修行を始められることとなる。中沢さんの文章は平易で淡々としており、しかし新しい世界が自分の前に開けてくるという、若い中沢さんの感激がよく伝わってきて、わたしの中の深いところが動かされるのを感じる。なんだかぼーっとしてしまう。
 さて、例えば「象徴の残余物」という言葉。わたしがこのブログでよくいっている「感情」という言葉は、この「象徴の残余物」というに近い筈である。また、心の本性は決して汚れることがなく、光であるということ。心は無底であること。たぶん、汚れるのはアーラヤ識なのだ。「無意識」というのはじつは存在せず、じつはその「無意識」といわれているのが我々の心なのであり、むしろ意識が仮構物であるということ。しかし、こんなことを書いてもじつは意味がなくて、すべては自分の心で体験しないといけないのだ。
 あと、「新潮」をテキトーに眺める。なかなかのビッグネームばかりじゃんと思うが、特に興味は持たれない。「レコード芸術」誌もあるなと見つけて、特集が「大作曲家晩年の室内楽」となかなかおもしろそうなので、ちょっと手にとってみる。しかし何となくパラパラ中を見ているうち、どうでもよくなって帰ることにする。
 
帰りに肉屋。
 

 
図書館から借りてきた、伊藤比呂美町田康『ふたつの波紋』一気に読了。対談集というか、バトルだ。いやー、めっちゃおもしろかった。全然噛み合ってない。というか、町田康が伊藤さんに噛みつきまくっている!(笑) 町田康のいうところでは、自分には「自分」というものがない、人間なんてのは大したことがなくて、下らない自我がイヤだといって、伊藤比呂美の「自分信仰」みたいなのを猛攻撃している。わたしの受けた感じは、町田康の「自分がない」というのは、科学に「自分がない」のに似ているというものだった。そして、「文学」という「不正確な自分」に拘る伊藤の態度を、「非科学的」と非難しているようである。でも、町田康は「科学者」として、ものすごく強固な「超人的な自我の塊」だと思う。それに対して、伊藤比呂美アノニマスで、たんなるふつうの「無名人」が全力で生きていて、それゆえにある意味では自我というものがないのだ。そのあたりのちがいが、わたしが最近まったく町田康が読めなくなり、伊藤比呂美ばかり読んでいるのと強く関係していると思った。

それにしても町田康のこの攻撃性は何だろうね。伊藤比呂美をほぼ全否定して已まない。
 
思うに、町田康は近代的自我をもった、近代人だな。対する伊藤は、前近代人で、自我も他者も(ついでにいうと植物も)ごっちゃに溶け合っている(そのアマルガムが、伊藤のいう「自分」だ)。近代的自我と「無意識」がはっきりと分離した町田は、その「無意識」の方を駆使して作品を書くのだ。町田が伊藤を攻撃するのは、三島由紀夫深沢七郎をとても嫌ったのを思い起こさせる。もっとも、三島はまさに近代的自我だけで書いたのに対し、町田は「無意識」で書くのだが。上で書いたことを応用すれば、町田は象徴の機能とその運動性だけで文章は構成できるし、それ以外あり得ないと思っているのに対し、伊藤は「象徴の残余物」という「文学の神秘」を手放さない。町田には、その伊藤のアノニマスな「宗教性のようなもの」が、近代人として認められないのである。
 
敢ていえば、その「象徴の残余物」に詩は宿るのである。
 

 
夜。
読み返していた、河合隼雄先生と中沢さんの『ブッダの夢』を読み終える。この人たち、ほんとにバカそのものだなあ。かしこい人たちからバカにされる筈だ。わたしなんかはまだバカになろうとするところがあって、ナチュラルにバカそのものではなく、つまりはまだまだということだ。

映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」

曇。
 
だらだら。
ごろごろ。
BGM
 
ウチの梔子(クチナシ)の実。
20220221164110
おせち料理のきんとんを黄色く染めるのに実際に使う。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114 で、クラリネットは松本健司、チェロは藤森亮一、ピアノは横山幸雄NML)。この曲が聴きたくなったので、NML で調べてみたら演奏の選択肢がたった10しかなかった。まさかそんなことはないだろうとよく見てみたら、この曲が二重に立項されていた。そうでしょう、ブラームス最晩年の名曲だからね。

アパッショナート

アパッショナート

Amazon
シューベルトの三つのピアノ曲 D946 で、ピアノは田部京子NML)。田部京子さんって、僕と同世代なのだな。これは若い頃の録音で、なかなかよいよ。 
 
夜。
先ほど聴いたシューベルトの D946 の第二楽章第二中間部(この曲いちばんの聴きどころである)が耳に付いて離れないので、第二楽章だけ聴き返す。
Wikipedia を見てみたら、この曲はシューベルトの死後忘れられていて、40年後にブラームスが曲の価値を認めて匿名で編集して出版したらしい。忘れられないでほんとよかった。
 
 
映画「わたしは、ダニエル・ブレイク」を観る。ケン・ローチ監督。観ていてつらくて仕方がなかった。わたしはセンチメンタルなので、何箇所かで泣けた。
ケン・ローチ監督のことは、ブレイディみかこさんの本で知った。よく知らないが、いわゆる社会派の映画監督というか、(イギリスの)労働党のゴリゴリの支持者でもある、ということだったと思う。映画では、病気で働けなくなった老人が、理不尽な行政システムによってムリな要求を突きつけられ、虫ケラのように窓口をたらい回しさせられていく。陳腐な感想になるが、人間の尊厳ということを思わずにはいられなかった。
 
『わたしは、ダニエル・ブレイク』はチャリティー映画じゃない。反緊縮映画だ。(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース
自分で大したことのない感想を書いておいて何だが、いろいろ他人の感想を読むとどんなもんだろうなというのが多かったので、たまたま見つけたブレイディみかこさんの映画評をリンクしておく。やはり一味ちがいますな。

こともなし

日曜日。曇。
早起き。
 
洗濯。
かかりつけ医から連絡があって、老母のPCR検査は陰性だった。
 
スーパー。
町内の子供たちが(たぶん)袋に詰めたお菓子をもらって、歩いて帰ってゆくのを見た。何だろう。
 
雪がちらつく。夕方までどうでもいいことをする。別に何もしなくてもいいのだけれど、何かしてもいい。
 
夕飯は塩鮭を焼いたもの。もやし炒め。ちくわ。

三中信宏『読書とは何か』

曇。
 
朝起きたら老母が腹痛と高熱。かかりつけ医に連絡して昼前受診する。ノロウィルスの可能性が高そうだが、とにかくいまの状況だからPCR検査。結果が出るまでは三日くらいかかるかもと。
 
スーパーへ行ってきて、昼食と夕食のもの、ポカリスエット等を買ってくる。昼食はスーパーの弁当とインスタント味噌汁でテキトーに済ませる。
 

 
第21回:真の「チリの奇跡」が起きている(岸本聡子) | マガジン9
チリでこんなことが起きているとは。日本でももっと知られていいな。
 
守銭奴経済: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

そういう守銭奴経済の罠にはまってしまった日本では、政治家も学者も評論家もみんな脳みそが守銭奴化してしまっているものだから、「分配」という本来望ましい政策すらもが、モノやサービスをみんなにばらまこうという話には向かわず、ひたすらゼニカネをばらまくことにしか頭がいかない。その結果、預金通帳の残高ばかりがひたすら増えていき、肝心のGDPの構成要素であるモノやサービスの付加価値にはつながらないという笑劇ばかりが繰り返されるという一幕。
 
守銭奴から金を取り上げてモノやサービスの形にしてみんなにばらまけば、その一つ一つがGDPを引き上げることになるんだが、そういうのを無駄の極みと目の仇にするんだからどうしようもねぇや。

これはなるほど。わたしはいろいろよくわかっていないな。
しかしこれ、そんなに自明なことじゃないよね。わたしがわかっていないだけでなく、一般にも理解されていないと思う。王様(=いまの経済学)は裸だ、ってことでしょう? いまは守銭奴サイコーって時代だから。
 
雨。
インスタントコーヒーを飲みながらぼーっとする。
 
夕飯は鱈チリ。老父と食う。
 
夜。
三中信宏『読書とは何か』一気に読了。スローガン的にいうと、読書の達人による骨太の読書論とでもいうことになるか。著者は理系の研究者で、専門は進化生物学・生物統計学とある。わたしは著者の「系統樹思考」についての本がなかなかいいと(不遜にも)思っている。さて、本書を読んで、わたしにとっての読書とは、もっぱら忘れることにあるかなと意識した。つまりは、「無意識」、深層意識に沈めるために、読んでいるといっていいように思う。わたしにとっては、本の内容も大事でないことはないが、文章を読んでいて、どんな感情が湧き上がってくるのかという方が主である気がする。だからこのブログにもそういう個人的なことばかり書いているし、故にそれは他人にはほとんど価値がないのかも知れない。しかし、そういう(凡庸な)読み方が、何の意味もないとは思わないのも確かなのだ。