坪内祐三『大阪おもい』

晴のち曇。
 
午前中、RubyAtCoder
 
図書館。
 
図書館から借りてきた、坪内祐三『大阪おもい』読了。坪内氏による大阪本。前著に『まぼろしの大阪』というのがあるらしい。いまわたしは頭の調子が悪いので、本書のような軽い(高級)雑文集は楽しく読めた。坪内氏はいうまでもなく都会人であり、本書もまた都会の粋(「すい」でも「いき」でもいい)に関する本であるといっていいだろう。わたしは都会は好きだが、結局「都会の粋」はわからなかったなと思う(当たり前か)。本書に「田舎者」という語が蔑称として使われているが、まあ、やかましくいうほどのこともない。田舎者、か。

坪内氏には、たぶん名古屋は都会に入らなかったような気が、何となくするのだが。
 
夜。
NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812、第二番 BWV813 で、ピアノはアンドレイ・ガヴリーロフNMLCD)。■バッハの無伴奏チェロ組曲第五番 BWV1011 で、チェロは藤原真理NMLCD)。

岐阜県美術館で「日本洋画 美の系譜」展

曇。
RPG の夢を見たのだけれど、キャラクターがドット絵ではなくて、吉田戦車みたいな変わった絵だった。変なの。夜遅くまで『ゼロの使い魔』動画を観ていたせいかな。何にせよ、夢がサブカル化してきている感じがする。
 
無意識。何故フロイトシュルレアリスムが顧みられなくなったのか。現代芸術の平板化、無意味化。「底が浅い」ということ。
 
スーパー。
 
 
昼から県図書館。「新潮」の中沢さんの連載「精神の考古学」第2回を読む。中沢さんの若い頃、マオイズムやフランス現代思想を検討しつつ、ゾクチェンへ至っていく過程がゆるゆると描かれる。ネパールの旅が、これほど詳しく語られたことは、以前なかった。30年間中沢さんを読んできたわたしも知らない話ばかりで、非常に興味深い。キリスト教で「天使」の空間とされたものを、超越性なしに探求していくこと。比喩としてダンテの『神曲』が持ち出されるが、中沢さんの出発点には『神曲』論が確かにあった。『チベットモーツァルト』に、「極楽論」として収められている。
 中沢さんの連載を読み終えて、筒井康隆のヤケクソな短篇(特におもしろくない)など雑誌をパラパラ繰っていたら、ソファーの隣にすごくおしっこ臭い人が座ってきたので、ちょっとびっくりした。
 
岐阜県美術館で、「日本洋画 美の系譜」展を観る。大人1000円。
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ポーラ美術館とのコラボということだが、展示品は6~7割が岐阜県美術館のもので、それも既に観ているものが多かった。客、ほとんどおらず。ムンクリトグラフいくつかが特によかったかな。山本芳翠(岐阜県出身)のようなきっちりとしたわかりやすい絵も、わたしは好きらしい。
 「IAMAS ARTIST FILE #07 ウィデオー/からだと情報」を観る。IAMASは大垣にある、情報科学芸術大学院大学のこと。ま、現代芸術。
 収蔵品展は、いつもながらルドンがよかった。わたしは幻想絵画が好きなのだなと思う。ルドンはここの美術館の目玉。あと、「円空大賞の20年」の前田常作(「人間風景 No.12」)とか。収蔵品展はわたし以外、誰もおらず。
 2010.2.18 に同じような感想を書いている。10年経っても進歩のないわたし笑。
 
 
早寝。

こともなし

今日は晴れていい天気。
 
金柑を食う。
五十羽くらいのカラスがウチの上で乱舞していて、カアカアとうるさかった。何なんだ。
 
昼飯は焼きうどん。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。『バーリン ロマン主義講義』の続き。第三章、第四章を読む。ハーマンときたら、今度はヘルダーか。ヘルダーも読んだことがないが、バーリンの筆によるヘルダーはおもしろい。ロマン主義者というよりは、反コスモポリタニズムとでもいう観点からしたヘルダーを扱っている。興味深い、なぜなら、田舎者、「田舎主義者」という一点から、わたしもまた反コスモポリタニズムの持ち主といってもいいようなものだから。もっともわたしが「田舎主義者」であるとすれば、それは理性によってそうなったというよりは、ただの田舎者であるがゆえにそうなったのだが。土着性というものに自然の無限を見るという、そういう田舎者なのである。これは patriotism といってもよいようなものだが、「愛国主義」と訳されてはだいぶちがう。鶴見俊輔の「愛郷心」と訳したに近いというべきだろう。もっとも、「愛」というのも既にちがう感じだが。
 バーリンという人自身がまた興味深い。繊細な手付きで思想を扱うが、根幹は骨太であり、しかも複雑な人である。本書でも、バーリンがいったいロマン主義に対して pro なのか con なのか、よくわからないのである。そんなところがおもしろい。もののよくわかった人というのは、誰もそんな感じだ。
 本書の扱うカントもわたしなどにはおもしろい。「教科書」の教えるカントとは、いささかちがったカントが見られる。ロマン主義とカント? まあそれ自体は意外でもないのかも知れないが…。バーリンはまた、ルソーを合理主義者と見たりする。そういえば、ルソーは自分では合理主義者として振る舞っていたのであり、ただ、死後ロマン主義化されたのだというようなことを、林達夫がさらりと書いていたな。
 

 
日没前、一時間ほどふらふら散歩。



カルガモたち。

わたしを警戒していて、何かあったらすぐ飛び立てる構え。




こんなところに、国土地理院の一等水準点が。これまで気づかなかった。

「大切にしましょう 水準点」の文字。

以下、近くの白山神社




行き止まりかと思ったら、抜け道が下っていた。

名鉄美濃町線琴塚駅ホーム。





寒かった。
 
夜。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン』第1話を観る。絵がとてもきれい。
 
NML で音楽を聴く。■藤倉大のピアノ協奏曲第四番「Akiko's Piano」で、ピアノは萩原麻未、指揮は下野竜也、広島交響楽団NML)。

シューベルト即興曲集 op.90 D899 で、ピアノは園田高弘NML)。

 
 
フー・ツォンの弾くモーツァルトのピアノ協奏曲の録音(参照)を聴こうと思ったら、録音バランスがめちゃくちゃだった。オケに音量を合わせるとピアノが小さすぎ、ピアノに合わせるとオケがうるさくて聴いていられない。メジャーレーベルなんですけど。

こともなし

日曜日。曇。
 
夕方までずっと Ruby で AOJ。競技プログラミングはおもしろいんだけど、熱中したあと何となくむなしくなる気も。ただ、Ruby でコードを書くのが好きなんだよねー。
 
ついでに「Hit&Blow」ゲーム(数当て遊び)も Ruby で書いてみる。
Hit&Blow を Ruby で - Camera Obscura
 
夜。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がおもしろくなってきたので、中公文庫「日本の歴史」シリーズの『鎌倉幕府』の巻を読む。随分と古い本だが、惹き込まれてぐいぐいと進む。ははあ、なるほどそうなっていくのか、って感じ。ドラマには決して描かれないであろう記述もおもしろい。頼朝は鎌倉で地道に「武士たちの国」を作っていったのが革命的だったわけで、それが後700年続く「武士の時代」へ道を開いたのがよくわかる。頼朝のこの姿勢が、歴史を大きく変えたのかも知れないのだ。

こともなし

曇。
 
みかんの木にヒヨドリがたくさん来ている。朝からキーキーとうるさいくらい。
ヒヨドリたちに野菜まで喰われた。
 
スーパー。焼き芋の機械の音楽が軽快でけっこう好き。
 
昼寝。寝過ぎ。
 
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大集団で荒らしているやつら、ムクドリかも知れんな。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスの二つのラプソディ op.79 で、ピアノはペーター・レーゼルNML)。

ハイドン交響曲第九十三番 Hob.I:93 で、指揮はオイゲン・ヨッフム、シュターツカペレ・ドレスデンNML)。キビキビとしたよい演奏。ウェーベルンパッサカリア op.1 で、指揮はヘルベルト・ケーゲル、ライプツィヒ放送交響楽団NML)。これは…。表現主義的というのか、すごい迫力だな。ウェーベルンの五つの楽章 op.5、六つの小品 op.6 で、指揮はヘルベルト・ケーゲル、ライプツィヒ放送交響楽団NML)。何ともナマナマしいウェーベルン! すごい。ブーレーズともシノーポリともだいぶ感じがちがうな。いつ頃の録音か知らないが、音質も充分。
 
夜。
NHKブラタモリ」は竹富島。島民の方々がとてもよかった。タモリのいうとおり、皆んな明るい。さて、自然と接続した、こんな暮らしがいつまで続くものかな。若い人たちは、島に残るものだろうか。ノロの後継者は見つかるのか。
 いま、地方の問題はそれだ。特に若い女性が、みな都会へ出ていく。田舎には、いまの若い女性を惹き付ける職業がない。
 
ネットを見ると、竹富島も既に完全に観光地化しているのだな。已むを得ないのであろう。
 
 
松岡和子訳『シンベリン』を読み始める。そういや松岡さん、何か朝日新聞の賞を貰っていたな。朝日賞か。

中井久夫『私の日本語雑記』

曇。
何かカッコいい夢。ひとつは体育館で 3on3。どこまでも軽く、自由に体が動く。もうひとつは教師である夢。これは細かくは思い出せない。機械語でプログラミングとかしていたか。でも、それだけでない。
 

 
才能のない精神障害者にはロールモデルが存在しない | Books&Apps
地獄の中にあって、せめて踊って死ね。それだけだ。 - 関内関外日記
そうやって悶々と考えていること自体が苦痛を生む。その無限ループを断ち切らない限り、苦痛から逃れられない。
ただ、僕は黄金頭さんの文章は好きなんだよね。その苦痛が名文を生み出し、本人がそれなりに納得しているなら、苦痛も已むを得ないのか。むずかしいな。
いずれにせよ、生きていることそのものが苦痛だというのは、誰でもそうである。生老病死一切皆苦
 
 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー418円。店内が寒いせいか、テーブルで食べる人はほとんどいなかった。
テヘランでロリータを読む』を読み始める。経験豊かな女性教師と少数の女子学生たちが、厳格なイスラム教国家の中で禁じられた小説を秘密で読む話。『ロリータ』など、そんな中で読んで意味があるのかとも思ったのだが、わたしの予想を遥かに超えて、テヘランで『ロリータ』を読む体験というのはアクチュアルだった。例えば、イスラム国家での女性たちは、ハンバートがロリータを閉じ込めて「声を奪う」ように、声を奪われているのだ、とか。女性性に対する、男性性の暴力性。でも、女子学生たちの読みは、決して一様でない。小説に自由、開放感を覚える人もいれば、伝統って、そんなに下らないものなの、と思う人もいる。読んでいるうちに、わたしは何が「正しい」のか、どんどんわからなくなってゆく。
 それから、痛感したのは、わたし自身の問題で、他人にはどうでもいいことだが、わたしは一級の文学読みではない、という事実。わたしは優れた邦訳で『ロリータ』を読んだ筈だが、いったい何を読んでいたのかということだ。わたしは文学を読むことにおいて、残念ながら happy few ではないのだ。

 
 
中井久夫を読む。まさに超人的。ちっぽけな自分が消し飛んでしまう。
中井を読んで、わたしの本の読み方が一単語一単語の意味を追うのではなく、強くコンテクスト依存的であることに気づく。いってみれば、活字を眺めているだけだ。だから、原理的にコンテクストの存在しない本の冒頭部が、曖昧になる。同じ理由で、詩が読めないわけである。
 
夜。
中井久夫『私の日本語雑記』読了。本書を読み終えて、ある詩人による文庫解説を読んだらその文章のだらしなさに索然としたが、それはたぶんその詩人のせいというよりは、嫌でも中井さんの文章と比較することになってしまったからであろう。(しかし中井久夫の本の「解説」を引き受けるとは、怖いもの知らずと言われても仕方あるまい。)中井さんの散文は、それくらいのレヴェルにあるわけだが、その訳詩体験も本書で語られていて、ほとんど啞然とする。到底わたしの理解の及ぶところではない。
 
ひさしぶりに『カヴァフィス全詩集』(中井久夫訳)を繙いてみる。