中井久夫『私の日本語雑記』

曇。
何かカッコいい夢。ひとつは体育館で 3on3。どこまでも軽く、自由に体が動く。もうひとつは教師である夢。これは細かくは思い出せない。機械語でプログラミングとかしていたか。でも、それだけでない。
 

 
才能のない精神障害者にはロールモデルが存在しない | Books&Apps
地獄の中にあって、せめて踊って死ね。それだけだ。 - 関内関外日記
そうやって悶々と考えていること自体が苦痛を生む。その無限ループを断ち切らない限り、苦痛から逃れられない。
ただ、僕は黄金頭さんの文章は好きなんだよね。その苦痛が名文を生み出し、本人がそれなりに納得しているなら、苦痛も已むを得ないのか。むずかしいな。
いずれにせよ、生きていることそのものが苦痛だというのは、誰でもそうである。生老病死一切皆苦
 
 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー418円。店内が寒いせいか、テーブルで食べる人はほとんどいなかった。
テヘランでロリータを読む』を読み始める。経験豊かな女性教師と少数の女子学生たちが、厳格なイスラム教国家の中で禁じられた小説を秘密で読む話。『ロリータ』など、そんな中で読んで意味があるのかとも思ったのだが、わたしの予想を遥かに超えて、テヘランで『ロリータ』を読む体験というのはアクチュアルだった。例えば、イスラム国家での女性たちは、ハンバートがロリータを閉じ込めて「声を奪う」ように、声を奪われているのだ、とか。女性性に対する、男性性の暴力性。でも、女子学生たちの読みは、決して一様でない。小説に自由、開放感を覚える人もいれば、伝統って、そんなに下らないものなの、と思う人もいる。読んでいるうちに、わたしは何が「正しい」のか、どんどんわからなくなってゆく。
 それから、痛感したのは、わたし自身の問題で、他人にはどうでもいいことだが、わたしは一級の文学読みではない、という事実。わたしは優れた邦訳で『ロリータ』を読んだ筈だが、いったい何を読んでいたのかということだ。わたしは文学を読むことにおいて、残念ながら happy few ではないのだ。

 
 
中井久夫を読む。まさに超人的。ちっぽけな自分が消し飛んでしまう。
中井を読んで、わたしの本の読み方が一単語一単語の意味を追うのではなく、強くコンテクスト依存的であることに気づく。いってみれば、活字を眺めているだけだ。だから、原理的にコンテクストの存在しない本の冒頭部が、曖昧になる。同じ理由で、詩が読めないわけである。
 
夜。
中井久夫『私の日本語雑記』読了。本書を読み終えて、ある詩人による文庫解説を読んだらその文章のだらしなさに索然としたが、それはたぶんその詩人のせいというよりは、嫌でも中井さんの文章と比較することになってしまったからであろう。(しかし中井久夫の本の「解説」を引き受けるとは、怖いもの知らずと言われても仕方あるまい。)中井さんの散文は、それくらいのレヴェルにあるわけだが、その訳詩体験も本書で語られていて、ほとんど啞然とする。到底わたしの理解の及ぶところではない。
 
ひさしぶりに『カヴァフィス全詩集』(中井久夫訳)を繙いてみる。