渡辺靖『リバタリアニズム』

晴。いい天気。

肉屋。豚ヒレ肉を買ってきました。

ネッツトヨタの営業の人に連絡を取る。カーナビの地図データ更新の件。


昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。ブレンドコーヒー275円。『コレクション瀧口修造3』の続き。瀧口修造シュルレアリストであるといわれるが、そんなレッテルでいいのか。瀧口は何者でもないし、極少数のための人だという印象が拭えない。もし瀧口がシュルレアリストに過ぎないとすれば、わたしはシュルレアリスムというものを誤解していたことになるだろう。まあ、そんなことはどうでもいいのだが。

瀧口修造を読むと、大部分の本や音楽その他が汚いもののように思えてきて、困るといえば困る。

渡辺靖リバタリアニズム』読了。実際は「再読了」で、本書は二年前に読んでいるが、そのこと自体、まったく覚えていなかった。あとがきを見て、何か既視感があるなと気づいた次第である。二年前の感想を読んでみたら、じつに下らないというか、自分で共感できなかった。いま読んでみて、自分の中で本書の言葉がホワイトノイズ化しているのを感じる。言葉の意味、シニフィエが失われているわたくし。空無。

とにかく、同じ本を買い直してしまったことになるよ笑。

夜。
吉本隆明全集16』を読む。吉本隆明は事大主義者だといった人がいたが、わたしは吉本さんを読んでいて、震えるように繊細なものを感じる。繊細すぎて、反射的に遠くへ飛んでしまうところが、確かにわかりにくいが。遠くに散らばっているものたちが繊細に震えるとき、それらを同一のパースペクティブに収めようとするのが、わかりにくいと言ってもよい。そういう仕方が個人的であることもあれば、普遍性をもっていることもあるが、いずれにせよ、吉本さんのやり方は変わらないのだ。吉本さんは、詩と思想の相同性を類稀れなやり方で体現している。

飛騨古川家族旅行

以前から飛騨古川には行ってみたかったので、いま紅葉もいちばんよい時であり、思い切って家族で行ってきた。飛騨古川は高山よりももっと北の、小さな町である。

朝八時ちょうどに出発、いつもの岐阜各務原ICから、今日は東海北陸自動車道を一路北へ。中間点くらいのひるがの高原SAで休憩する。下はサービスエリアから見えた白山で、既に雪を頂いていた。

ひるがの高原SAを過ぎたあたりから紅葉がすばらしい。運転していたので写真はないけれども、高速道路は山深いところを通っているので、たぶんせせらぎ街道の紅葉よりも見事だと思う。山の国の大パノラマが見られる。

飛騨清見ICで降りてそのまま中部縦貫自動車道へ。高山ICで国道41号に接続し、途中で東に折れて、最初の目的地、安国寺へ。ここには国宝の「経蔵」があり、拝観には予約が必要である。知的な感じのする若いお庫裡さん(だと思う)が、丁寧に解説して下さり、とてもよい印象を受けた。
 安国寺は南北朝期の動乱で多数の戦死者が出たのを弔うため、足利尊氏と直義が全国に建立せしめた寺であり、ここは飛騨の安国寺ということになる。臨済宗妙心寺派。お庫裡さんの説明だと、もともと別のお寺だったそうだが、安国寺に指定されたということらしい。最盛期は七堂伽藍と九つの塔頭を擁する大きな寺院だったけれども、戦国期に戦乱によって、(現在国宝である)経蔵を除いて焼失したという*1。御本尊は釈迦如来であり、二体の脇侍があって、これらは十四世紀の作だそう。



本堂。



上が国宝の経蔵。1408年の建築であるという。ちなみに岐阜県にはこれを含め、国宝は四つしかない。写真は撮れなかったのだが、内部には日本最古といわれる「輪蔵」があり、これは回転式の経蔵で、ここに一切経を収め、回転させるだけで一切経を読んだだけの功徳があるというもの。一切経は、実際にここの僧が中国に渡り、招来したものであるという(これ自体はそれほど貴重なものではないそうだが、驚きだ)。輪蔵がいまでも音なく回転することを、実際に試させてもらえた。あとは、江戸時代の参拝者の名前の「落書き」があったのだが、これは当時としては悪いことではなかったそうである。お庫裡さんにいろいろ詳しい解説をしてもらえて、じつによかった。

開山堂。いま調べるまで知らなかったのだが、重文の瑞巌和尚坐像がここにあるらしい。瑞巌和尚は十四世紀半ばにこの寺を開いた。


寺からの風景。


寺から降りていったところに、遠く雪山が見えた。乗鞍岳


そこから少し北の、飛騨古川へ。駅裏の無料駐車場に駐めて、町を歩く。こぢんまりとした町で、一時間もあればざっと廻れてしまうほどだ。アニメ映画「君の名は。」の飛騨の町のモデルになっていることで、若い人なら知っているかも知れない。また、武満さんが気に入り、深い関係をもった町でもある。

飛騨古川駅ホーム。

JR飛騨古川駅。小さな無人駅だ。駅前の観光案内所で、町の観光マップをもらう。

ふつうの路地が、こんな感じである。

地元のテレビにもよく出てくる、瀬戸川と白壁土蔵の通り。ここには何度も戻ってくることになる。

有名な和ろうそくのお店。その先の蕪水亭OHAKOで昼食を摂る。わたしはオムライスをいただきました。


荒城川。

山鉾が収められている。

以下、また瀬戸川と白壁土蔵の通り。

冬を前に瀬戸川の鯉を移動させるのは、毎年地元NHK局が報道する風物詩。まだ鯉はいました。



右は円光寺。渡辺酒造の米麹の匂いがただよってくる。


円光寺。


渡辺酒造。「蓬莱」というお酒で有名な蔵元である。杉玉が新しくなっているとおり、中で訊いてみたところ、今月一日に搾りたてほやほやの新酒が出来ていた。老父母が試飲。新酒とにごり酒の四合瓶を購入する。

古川の町は観光地といえばそうなのだが、まだ人のふつうの生活が生き残っていて、作り物の高山とかよりもわたしにはずっとよかった。写真ももっと載せたいくらいなのだけれど。ほんといい町で、大満足でした。これは古川にはよくないことかも知れないが、観光客も少なく、落ち着いて廻れた。って、こちらも観光客なんだけれどね。

次は、円空仏で知られている千光寺へ。円空仏は寺宝館で見られるらしいが、予約が必要ということを現地で知り、あきらめる。しかし、高所から見た山の景色はすばらしかった。


乗鞍岳二枚。

御嶽山

あとは行きの逆を南下して(帰りも、高速道路から見る紅葉といったら!)、夕方四時半頃帰宅。夕食に古川の渡辺酒造で買い求めた新酒を飲んだところ、フルーティでワインのように飲んでしまった。ああもう、最高の一日。

*1:後記。焼失を免れたのは経蔵だけだと思っていたら、開山堂もそうらしい。訂正しておく。

小沼純一『武満徹逍遥』

祝日(文化の日)。
深夜起床。

NML で音楽を聴く。■コルンゴルト弦楽四重奏曲第二番 op.26 で、演奏はユーセビアス四重奏団(NML)。

Chamber Music

Chamber Music

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モーツァルト交響曲第四十一番 K.551 で、指揮はジュリアン・ショーヴァン、ル・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ(NML)。いまでは珍しくない、古楽器によるモーツァルトだが、個性的というか、癖が強い。テンポは速いし、アクセントは強烈、アンサンブルがちょっと乱れても気にしないし、そもそも音が汚い。でも、おもしろいね。古楽器による演奏も多様化したわけだな。 
晴。
スーパー。

ガソリンスタンド。

珈琲工房ひぐち北一色店。小沼純一武満徹逍遥』の続き。おもしろくないことはないし、勉強になるが、いまひとつピンとこない。
 わたしはそもそも、わずかな曲を除いて、武満さんの音楽を思い出すことができない。たぶん曲の一部を聴いて、これは武満さんのこの曲だ、と当てることはできないだろう。しょっちゅう武満武満いっているわりに、わたしのレヴェルはそんなものである。しかし、吹き抜けていく風や流れていく水そのものを、思い出すことができるのだろうか。


日没前、散歩。



お墓へ行って、花の水を注ぎ足してきた。




夕方五時には陽が落ちてしまうようになった。


図書館から借りてきた、小沼純一武満徹逍遥』読了。

 
中沢さんを読んで寝る。

「劇場版ソードアート・オンライン プログレッシブ 星なき夜のアリア」を観てきた

晴。

NML で音楽を聴く。■ラフマニノフの「楽興の時」 op.16 で、ピアノはニコライ・メドベージェフ(NML)。

■ニコライ・メトネル(1880-1951)のピアノ・ソナタ op.22 で、ピアノはニコライ・メドベージェフ(NML)。
 



ウチのイチジク。

銀行屋来訪。

イオンシネマ各務原で、「劇場版ソードアート・オンライン プログレッシブ 星なき夜のアリア」を観てきた。アニメを観るのはひさしぶりだな。SAOはこれまですべてのシリーズを観たので、これも当然という感じで行ってきた。テレビシリーズ最初の「アインクラッド編」の冒頭をアスナの視点でリメイクしたものという代物で、途中からはセリフもほぼ同じ(細かく追加されたシーンはある)、エンドロールが流れ始めたところで「これで終わりかよ、もの足りん!」と思ってしまった。だって、第一層のボス攻略までなんだぜ、もう知ってるじゃん。アスナの学校の友だちのミトってのが出てきて、彼女が出てくるところだけ微妙にちがうが。続きはまた来年、映画館でだってさ。ま、キリト君の俺TUEEEがひさしぶりに見られてそれはよかったかな。絵はめっちゃきれいだった。なんか知らんけど、特典の絵ハガキくれたし。

早寝。

青柳いづみこ『ドビュッシー最後の一年』 / 吉田篤弘『つむじ風食堂の夜』

晴。

老両親がバカバカしいことでケンカしたので、とばっちりを喰って外へ昼食に出る羽目になった笑。

BOOK OFF江南赤童子店へ。110円文庫本で柳美里さんの少し前に話題になった小説、松浦理英子さんなど。あとは村上春樹騎士団長殺し』も文庫本でまとめて買う。

昼食はコメダ珈琲店江南村久野店にて。ミックストースト+たっぷりブレンドコーヒー1170円。青柳いづみこさんのドビュッシー論を読む。病的なまでに(これは比喩ではない)鋭敏で洗練されたドビュッシーの精神について読んでいたら、隣の席に60代くらいのおっさんたちが座って、何やら土着的で野卑な世間話を始めた途端、たちまち文章が頭に入らなくなってしまったので笑った。よかれ悪しかれ、わたしもまた(野卑ならぬ)亞インテリであることに気づかされる。
 帰りはとてもいい天気。何だか愉快な気分で、いつもは通らない道を楽しんだ。

図書館から借りてきた、青柳いづみこドビュッシー最後の一年』読了。青柳さん、いつもながら読み応えがある。みずからの精神の病的な鋭敏さに苦しんだドビュッシー。文明の爛熟。青柳さんはドビュッシーの運命をどちらかというと悲劇的に、報われなかったように書いているようにも読めるが、あとの時代に対する影響は、青柳さんのいうほどに多くないのだろうか。武満さんなんかは、ドビュッシーに対して最大級の評価をしているけれど、まあわたしはあまりよく知らないので。

青柳さんはドビュッシーの「印象派」たるところを、さらりといってのけている。

音には基音とそれに派生する倍音列がある。人間の耳は普通は基音しか聞き取らないが、犬などの動物はかなり高次倍音まで感知するという。ドミソなどの響きのよい和音は、基音のドに第三倍音のソと第五倍音のミが重ねられている。「属七」といって、耳に心地よい響きのする和音も、ドミソに第七倍音のシ♭が重ねられたものと解釈できる。その上にさらに第九倍音のレを乗せた「属九」は、ラヴェルが多用した。
 ドビュッシーはさらにその上にファ(十一度)、ラ(十三度)……とどんどん積み上げていく。これは、古典的な和声法では禁じ手だったが、ほとんどすべての音が広義の自然倍音列にふくまれている。つまり、不協和音どころか耳に心地のよい響きということになる。(p.171-172)

わたしにはわかったようなわからぬような、であるが、とにかくそういうことなのだな。だから、ドビュッシーには、「今日の不協和音は、明日の協和音」なのだった。
 それだから、敢て不協和な、聴きづらい二十世紀の「現代音楽」に比して、耳に心地よいドビュッシーの音楽は、ともすれば「保守的に」聴こえてしまうというようなことを、青柳さんは仰っているのであるが…。

吉田篤弘という人の『つむじ風食堂の夜』なる小説を、さらっと読んでみた。今日「ブ」で買ってみた本。

 
夜。
NML で音楽を聴く。■ブラームス交響曲第三番 op.90 で、指揮はクリストフ・エッシェンバッハベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団NMLCD)。よい。■アルベール・デュピュイ(1877-1967)のヴァイオリン・ソナタで、ヴァイオリンはガエターネ・プルヴォスト、ピアノはエリアーヌ・レイエスNML)。なかなかいい曲なんだが、作曲者名(日本語)で検索してもほとんど何も出てこないぞ。アシュケナージのイギリス組曲の録音があるのか。2019年というから、わりと最近のだ。第三番の冒頭を聴いてみたが、技術はかなり衰えている。が、それはまあいい。せわしなくて、ちょっと聴いていられなかった。指が回らないのにテンポが速すぎる。

名古屋の庄内緑地公園駅へ

日曜日。曇。

スーパー。

この秋はキンモクセイが二度咲きしていると地元NHKの番組でいっていたが、実際そうだ。ウチでも匂うし、スーパーの駐車場でもよく匂っていた。

昼になってきれいに晴れたので、名鉄に乗って名古屋へでも行こうかと思う。わたしは若いとき一年間名古屋にいたので、その街でも訪れてみるか、と。

市民公園の駐車場に車を駐めて、名鉄各務原市役所前駅へ。いい天気だ。

テキトーにまずは犬山までの切符を買う。犬山行きは出たばかりで、次は30分後だった。なので、とりあえず三柿野行きに乗って、六軒で乗り換える。長い待ち時間はうとうとぼーっとする。

犬山からは犬山線。車窓の外を見たり、目をつむってぼーっとしたり。

名鉄上小田井駅のホーム。ここで名古屋市営地下鉄鶴舞線と接続している。わたしが名古屋に住んでいたときは、まだ鶴舞線名鉄が繋がっていなかった。

鶴舞線庄内緑地公園駅で下車。わたしが30年前、下宿していたときの最寄り駅だ。当然だが、浦島太郎である。よく食事した喫茶店も、駅近くの本屋もない。かつてはもっと閑散としていたのだが、ビルだらけになっている。けれども、意外にも、住んでいたアパートはまだあった。さほど変わっていない。わたしがいた部屋にも、当然誰か住んでいるようであった。

まあしかし、どうということもない。ただ、公園を散歩するつもりだったが、その気は失せた。庄内川にかかっている橋を、次の庄内通駅を目指して歩いて渡ることにする。




庄内川

橋を渡り切ったところ。
庄内通駅近辺もまるで覚えがない。初めて開高健の文庫本を買った、本屋があった筈なのだが。また、古本屋を見かけたが、これも記憶にない。シャッターが下りていた。けれども、何度か食事をしたことのある、ミスタードーナツ庄内通ショップ)がまだあったのには驚いた。30年前のことですよ? 入ろうか迷ったが、既にいい時刻になっている。あきらめて帰途に就く。

思った以上に時間がかかって、もっといろいろまわるつもりだったが、果たせなかった。今度は午前中から来よう。

『山田稔 自選集 II』 / 坪内祐三『アメリカ』

晴。

昼食は焼きそばなのに、ぼーっとしていてお米を研いでしまう。

肉屋。マックスバリュ。ぼーっとしていて、マックスバリュに行くことをほとんど失念していた。

サブ機の Ubuntu 21.04 を、21.10 Impish Indri にアップグレードする。ほぼ自動的に終了し、トラブルもなかった。
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その他、いろいろ放りっぱなしになっている Linux の OS を計五つ(PC三台)をアップデートする。皆んな Ubuntu 系統なんだけどね。
ついでに、必要になっていたマウス2つ、USBハブ1つを注文。
Windows Update の厄介さに困る(後記:丸半日かかった。勘弁してくれ)。

編集工房ノアから出た、『山田稔 自選集 II』読了。自選集全三冊が県図書館に入ってるのを老母が見つけ、借りてくるように云われたものである。既読の文章も結構あった。わたしのもっている世界とはまったくちがうが、とにかくいまこれほどコクのある日本語の文章を書ける文学者は、他にほとんどいないだろう。タイプはあまりにもちがうが、(そして文学者ではないが、)中沢さんくらいのものであろうか。暗い暗い、回想の世界。文学とは、すばらしく、また嫌なものだなとつくづく思う。それから、わたしは青春時代を京都で過ごしたので、山田さんの作品の舞台になっている場所の多くに土地鑑があり、しみじみとなつかしい。ストリートビューで見ると、もうわたしの京都は多くが残っていないのだな。あまり思い返すことはないが、それでも土地はいまでも記憶に鮮明だ。

 

図書館から借りてきた、坪内祐三アメリカ』読了。副題「村上春樹江藤淳の帰還」。なかなかおもしろかった。特に江藤淳についての考察をおもしろく読んだ。本書を読んでいて、わたしはアメリカについては、まあどうでもいいんだなということに気づいた。どうでもいいというか、わたしにとってのアメリカは、現在においても日本を政治的・軍事的に属国化しているところのその国という点が、いちばんである。アメリカ文化というのには、特別に惹かれたという記憶がない。そこが、わたしの大きな弱点でもあろうか。
 江藤淳は、日本の「近代文学そのもの」、化身であるといっていい。つまり、明治において開国し、西洋に追いつき追い越せとやっていった、その果ての「文学」だ。それが滅びた以上、江藤淳もまた滅びたのであり、あれほどの存在でありながら、江藤淳の死後、その著作集すら出ない。そんな江藤淳が、わたしにはいまだに気になる。
 なお、本書では村上春樹について多く語られるが、彼の小説については『風の歌を聴け』以外、ほとんど言及されない。わたしは、最近になって村上春樹の小説もまた、気になっているところなのである。

 

夕食のデザートに紅玉のコンポートを食った。うまかった。紅玉は御存知のとおりそのまま食べるにはすっぱいので、老母が作ったのである。

青柳いづみこを読む。