村上陽一郎『文化としての科学/技術』

曇。

このところの課題を解体したった。あーすっきりした。根が言語で表現できる領域を超えていたので、どうすればよいかむずかしかったけどな。まあ、言語化できないけれど、名誉欲や承認欲求や「言葉によって沈黙する」とか、そのあたりの下らない子供じみたもちゃもちゃしたやっちゃ。芋づる式に破壊していって、あとはさわやか君。自分のようなどうしようもない凡人は、ひとつずつ地道に潰していく他ない。ま、他人にはどうでもいいこっちゃな。
 
ごろごろ。


珈琲工房ひぐち北一色店。科学史家の村上陽一郎先生の『文化としての科学/技術』を読み始める。村上先生の本は昔いろいろ読んだな。村上先生のいう「科学」は基本的に自然科学のことなのだが、いまでは人文科学、社会科学というのがクローズアップされるようになった。文系の学問も、数量化・統計化され、実証研究を名乗るようになってきている。これが、我々の心にも大きな影響を与えるようになってきた。例えば、経済合理的な人間とか、統計的存在としてのわたし、とか。我々旧世代と、若い世代が大きくちがうのはそこだ。それと、前にも書いた、「社会化された自然科学」。例えば、脳科学由来の「自由意志は存在しない」というテーゼが、真剣に文系学者の間で議論されるような時代である、いまは。それを思うと、村上先生の議論は古典的で随分と牧歌的な感じもする。

 
村上陽一郎『文化としての科学/技術』読了。

玄侑宗久『日本人の心のかたち』

祝日(秋分の日)。晴。

武満徹の CD を聴く。「ア・ウェイ・ア・ローンII」「海へII」「ドリームタイム」。いかにわたしが狭い領域に跼蹐しているか、はっきりとわかる。

 

NML で音楽を聴く。■ムソルグスキー組曲展覧会の絵」で、ピアノは辻井伸行NML)。

 

岡崎武志的LIFE オカタケな日々〔62〕 | 春陽堂書店|明治11年創業の出版社[江戸川乱歩・坂口安吾・種田山頭火など]
近々書籍化されるそうだ。楽しみだな。

昼寝。

カルコス。濱口先生の啓蒙書など岩波新書二冊に、ちくま学芸文庫とか購入。かつてなら買っていたであろう本も他に出ていた。ま、いろいろな理由であまり買わないようにしている。


日没前、散歩。一時間くらい歩いたらちょっと疲れた。

ウチの紫苑。

赤いピーマン。



落水で草がトラップされていた。くるくる回る。


おひさしぶり、きったない猫。

お彼岸だけれど、彼岸花はもうお終い。あと、ドローンを飛ばしている人がいたな。

夜。
玄侑宗久『日本人の心のかたち』読了。「不二」について『維摩経』の話が特におもしろかった。確かにわたしは「自分が正しい病」に罹っているな。そして、じつにつまらないことで苦しむことがある。まことに未熟。まだまだ初歩的レヴェルである。

 
井筒先生の『東洋哲学の構造』から「9 禅仏教における時間のフィールド構造」を読む。大乗仏教における時間の把握は、わたしにはひどくむずかしいもののひとつだ。時間は流れるし、一方で流れない、というのはまだよい。けれども、アーラヤ識には時間性がない、とは? そもそも、アーラヤ識を知覚することはできないのだ。わたしにわかるのは取りあえず、時間は現在しかない、ということだ。過去も未来も、現在においてしかない。それははっきりとわかる。

『武満徹著作集2』

曇。

ごろごろ。

昼から、ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー429円。
武満徹著作集2』を読み終えた。窒息しそうになっている中、のびのびと広い空間で息をつけるような気分になる。小澤征爾岩城宏之、それから、瀧口修造。ますます瀧口という人に興味がもたれるが、さて、どうしたものか。県図書館に「コレクション瀧口修造」のシリーズが入っているようだから、とりあえずそれか。

武満さんの音楽は今ますます光芒を放っているが、その文章も大切で価値あるものであることをわたしは確信している。

帰りにフラワーパーク江南に寄って、散歩。













フォトジェニックな公園の写真は見ている方には定型的でつまらないだろうが、散歩するには悪くないんだ。

肉屋にも寄る。

柿落ち葉を掃く。この季節なのにまだ蚊に喰われた。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第七番 op.92 で、指揮はカルロス・クライバーウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。云わずと知れたオールタイム・ベスト。もはや取り戻すべくもない旧世界ではあるが、凌駕不可能である。いまの我々はめちゃめちゃに壊れているのだ。

ドリアン助川『バカをつらぬくのだ!』

祝日(敬老の日)。晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番 K.332、第四番 K.282、第五番 K.283、第十番 K.330、ロンド イ短調 K.511 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウスNML)。一気にアルバムすべてを聴いてしまった。モーツァルトってこんなに巨大だったんだ。わかってなかったな、わたしは。現代は、モーツァルトの意義って薄いとか、寝ぼけたことを考えていた。

ごろごろ。


ドリアン助川『バカをつらぬくのだ!』読了。副題「バカボンのパパと読む老子・実践編」。前作も本書も BOOKOFF で買った。とてもいい本だな。生きるのがつらい人は本書にダマされてみるとよい。世の中に溢れている人生指南書と、同じようで同じでないから。本書で老子に興味を抱かれたら、前作もどうぞ。TAO はすべてを貫いているのだ。
 ただ、本書で著者が述べているとおり、世の中の「勝ち組」になりたい人は本書を読んでも、それから『老子』を読んでもたぶん意味はない。え、「勝ち組」になる以外、どんな生き方があるかって?

本書では自然の大切さが縷縷述べられるのがよい。エコロジーなんてものとは、あまり関係がなく。いや、エコロジーSDGs だって悪くはないが、所詮それだけのものだ。そもそも我々自身が自然なのだから。それは、人間が人間である以上変わらないから、だから自然が大切なのだ。我々の不幸のいくらかは、自然を失い、人工世界で生きられると過信したところにある。


FILT
リンク先はゆたさんのブログで教えられた。細野さん、軽く絶望的すぎるな。わかりみが深すぎる。

夜。
『ゴールデンタイム』をちょこちょこ見返してました笑。香子ちゃん、まったく肉食系女子だな。気持ちいいくらい真っ直ぐ。留守の彼氏の部屋に入り込んでベッドの上で勝手にごろごろ悶えてるのとか、何かリアルすぎて笑ってしまった。そんな彼女だから、終盤の展開は悲しいな。ハッピーエンドでほんとよかった。
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発情中。
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2クールOPより。

共感可能性とロジック

日曜日。晴。

スーパー。

昼から、珈琲工房ひぐち北一色店。ウンベルト・エーコの『歴史が後ずさりするとき』を読み始める。エーコは昔からどことなく好きになれないところがあるのだが、読んでみるとやはり大知識人だなと思わずにはいられない。エーコが亡くなったのは2016年か。いまはこのような大知識人が求められる時代ではなくなったといえるのかも知れない。そのような意図で翻訳される西洋の知識人はほとんどいなくなったし、日本でも例えば柄谷行人などはいまや存在感がなくなってしまった(それも已むなしというほど、柄谷自身も「劣化」したが)。思えば、そのような「大知識人」がかつて担っていた役割とは、何だったのか。それは、よかれ悪しかれ、世界の「客観的全体像」を意味づけるというものだったのではないか。なぜ、そういう仕事に価値がなくなったのか。さあ、それはわたしにはわからない。
 いや、「価値がなくなった」というより、かかる仕事が不可能になった、のか。コモン(共有地)がなくなったという言い方がなされることがあるが、我々はアトム化、断片化し、お互いへの共感可能性の低さに苦しんでいる、そんな風にも見える。それに対して、「日常(=コモン)を大切にしよう」という生き方でひとつ纏まるところがあり、それはそれでよくわかる大事な考え方だが、若い人たちは多くそちらへ向かわず、むしろ断片化を加速させようとしており、「個性(=断片の集積)の尊重」などからいえばそれもまたよくわかることだ。そして断片化されたアトムを、社会ダーウィニズムのような「社会化された自然科学」、あるいはフェミニズム社会学・経済学・政治学、哲学のようなロジックで繋ごうとしたり。「共感可能性よりはむしろロジック」という流れはこれからますます強まることだろう。わたしは、その逆こそが重要であると思うのだが、簡単に蒙昧主義、反知性主義に分類されてしまうことになるし、実際に「共感」はインターネットと結び付いて、トランピズムや単純なネトウヨなど、悪質なものを生むばかりだから、むずかしい。単純な旗に共感しやすいのは、当然だからな。しかし、さてはて、それをこう高みから断罪してみせるというのも、じつによくある啓蒙的正義派の「単純」でもあるし。我々の陥っている袋小路は、なかなかにどうしようもないというのがわたしの日々の実感である。

 

茶店から出てきたら、曇っちゃっていたな。

こともなし

雨。
昨晩遅かったので寝不足。

ごろごろ。

晴。長時間、昼寝。

中沢さんを読む。反省するところ多し。
わたしの命を潤す泉を、この部屋にいて見出すことができるだろうか。ほとんどの本も、音楽も、マンガも、アニメも、インターネット・コンテンツも、命を養うに足りない。突き抜けていかない。わたしの感受性が及ばないのか、それともそれらが絶望的に浅いのか。よくわからないが、おそらく前者なのだろう。いずれにせよ、わたしはまだまだ未熟ということだ。

早寝。