村上陽一郎『文化としての科学/技術』

曇。

このところの課題を解体したった。あーすっきりした。根が言語で表現できる領域を超えていたので、どうすればよいかむずかしかったけどな。まあ、言語化できないけれど、名誉欲や承認欲求や「言葉によって沈黙する」とか、そのあたりの下らない子供じみたもちゃもちゃしたやっちゃ。芋づる式に破壊していって、あとはさわやか君。自分のようなどうしようもない凡人は、ひとつずつ地道に潰していく他ない。ま、他人にはどうでもいいこっちゃな。
 
ごろごろ。


珈琲工房ひぐち北一色店。科学史家の村上陽一郎先生の『文化としての科学/技術』を読み始める。村上先生の本は昔いろいろ読んだな。村上先生のいう「科学」は基本的に自然科学のことなのだが、いまでは人文科学、社会科学というのがクローズアップされるようになった。文系の学問も、数量化・統計化され、実証研究を名乗るようになってきている。これが、我々の心にも大きな影響を与えるようになってきた。例えば、経済合理的な人間とか、統計的存在としてのわたし、とか。我々旧世代と、若い世代が大きくちがうのはそこだ。それと、前にも書いた、「社会化された自然科学」。例えば、脳科学由来の「自由意志は存在しない」というテーゼが、真剣に文系学者の間で議論されるような時代である、いまは。それを思うと、村上先生の議論は古典的で随分と牧歌的な感じもする。

 
村上陽一郎『文化としての科学/技術』読了。