共感可能性とロジック

日曜日。晴。

スーパー。

昼から、珈琲工房ひぐち北一色店。ウンベルト・エーコの『歴史が後ずさりするとき』を読み始める。エーコは昔からどことなく好きになれないところがあるのだが、読んでみるとやはり大知識人だなと思わずにはいられない。エーコが亡くなったのは2016年か。いまはこのような大知識人が求められる時代ではなくなったといえるのかも知れない。そのような意図で翻訳される西洋の知識人はほとんどいなくなったし、日本でも例えば柄谷行人などはいまや存在感がなくなってしまった(それも已むなしというほど、柄谷自身も「劣化」したが)。思えば、そのような「大知識人」がかつて担っていた役割とは、何だったのか。それは、よかれ悪しかれ、世界の「客観的全体像」を意味づけるというものだったのではないか。なぜ、そういう仕事に価値がなくなったのか。さあ、それはわたしにはわからない。
 いや、「価値がなくなった」というより、かかる仕事が不可能になった、のか。コモン(共有地)がなくなったという言い方がなされることがあるが、我々はアトム化、断片化し、お互いへの共感可能性の低さに苦しんでいる、そんな風にも見える。それに対して、「日常(=コモン)を大切にしよう」という生き方でひとつ纏まるところがあり、それはそれでよくわかる大事な考え方だが、若い人たちは多くそちらへ向かわず、むしろ断片化を加速させようとしており、「個性(=断片の集積)の尊重」などからいえばそれもまたよくわかることだ。そして断片化されたアトムを、社会ダーウィニズムのような「社会化された自然科学」、あるいはフェミニズム社会学・経済学・政治学、哲学のようなロジックで繋ごうとしたり。「共感可能性よりはむしろロジック」という流れはこれからますます強まることだろう。わたしは、その逆こそが重要であると思うのだが、簡単に蒙昧主義、反知性主義に分類されてしまうことになるし、実際に「共感」はインターネットと結び付いて、トランピズムや単純なネトウヨなど、悪質なものを生むばかりだから、むずかしい。単純な旗に共感しやすいのは、当然だからな。しかし、さてはて、それをこう高みから断罪してみせるというのも、じつによくある啓蒙的正義派の「単純」でもあるし。我々の陥っている袋小路は、なかなかにどうしようもないというのがわたしの日々の実感である。

 

茶店から出てきたら、曇っちゃっていたな。