池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』 / pha 『持たない幸福論』

曇。

池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』読了。わたしが仮にナチス政権下のドイツに住んでいたとして、いまでは「絶対悪」とされるナチスに反抗できたか、それは実際に生きてみないとわからない。軍国主義下の日本においてでも同じことである。わたしは、かつて軍国少年であった吉本さんを愛読してきたし、その吉本さんが戦後、その軍国少年たる過去を踏まえ、(贖罪とは反対の意味で)左翼としてできるだけのことをしてきたことを疑っていない。いや、いまの時代であっても同じことである。わたしは現代において、いかに生きるのか。片々たる教条主義サヨクとして、それなりの生き方ができるのだろうか。マンは、ナチス政権下のドイツで生きていたわけではなかった。別にだからどうというわけではないが。

pha 『持たない幸福論』読了。pha さんのことは、ネットをやる若い人にならかなり知られているのではないか。一方、知らない人は全然知らないだろう。京大卒ながら、かつては「日本一のニート」(?)などと呼ばれていた人で、「だるい」が口癖である。一般企業で働いていたこともあったが、それが苦痛で仕方がなく、定職をやめてシェアハウスを運営など、ふらふらしながら生きてきたといってよいのか。わたしの好きな若い(わたしよりということであるが)人のひとりである。著者は本書にオリジナリティはないというが、自分の体験と自分の言葉でわかりやすく書かれた、稀に見る「哲学書」といってよいだろう。BOOK OFF で100円で買ってきた本であるが、感銘を受けた。まあ、面倒なことを書くつもりはないが、それにしても、pha さんのだらしない(?)生き方が、わたしにはなぜか修行僧の生活にダブって見えてくるのである。生きることは目的よりも過程であり、少なくして満足し、ゆるく人と接し、お金に振り回されず、自分の好きなように時間を使う。それはお題目ではなく pha さんが日々ふつうに実践していることであり、そのためのコツを丁寧に解説までしてくれる。本書にはわたしの驚かされた言葉がいくらも鏤めてあって、例えば若い頃に読書と料理を身に着けておくのがおすすめというのにはウームと唸ってしまった。わたしは本は多少読むが、一人暮らしで料理をものにしなかったのは考えが浅かったと思う。料理はもちろん生きるのにとても役に立つし、一生モノの奥の深さがあるものね。また、大量のお金というものは固有のスピードを持っていて、それはふつうの人の自然な生活のペースより速い(p.167)という言葉には驚いた。それゆえ、たくさんのお金と関わると人は急かされて生きているように思ってしまうというのだが、これはわたしの出会った現代認識の中でも最高のそれのひとつであると思われる。pha さんにはじつはお金持ちの知人も多いようで、実感がハンパない。これを見ても、本書の奥深さは明らかだと思っている。そしてわたしが本書から学ぶべきは、pha さんにはつまるところ「他人との接触を断ってはいけない」という認識があるところだ。pha さんには人付き合いが苦手な側面があるけれども、そこをしっかり工夫して生きてきておられる。わたしは、そういうことをしてこなかったなと思うのである。

あと、ひとつ気になったのは、pha さんは病気になったらどうしておられるのかなということだ。国民健康保険に入っていないのは、弱者はそれだとするときわめてマズいのだが、それはどうしておられるのだろう。国保だけは加入しておられるのかな。

こともなし

祝日(勤労感謝の日)。晴。

非合理的な領域にも、正しい正しくないはあると思う。それは論理ではなく、直感で判断せざるを得ないが。しかし、その領域のほとんどは探求によってのちに論理化可能な筈であるとも思う。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第五番 BWV829 で、チェンバロは辰巳美納子(NMLCD)。この人には独特の感受性があるな。よい。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十九番 Hob.XVI:49 で、ピアノはジョン・オコーナーNMLMP3 DL)。■シューマンの「子供の情景」 op.15 で、フォルテピアノは小倉貴久子(NMLCD)。おもしろいというかすばらしいというか。この演奏者は変化球ピッチャーじゃないね。堂々たる本格派のストレート勝負だと思う。この人の「ダヴィッド同盟舞曲集」が聴いてみたい。

あんまりいい天気なので、昼から、少し離れたところにある BOOK OFF である江南赤童子店へ行ってみる。近所の各務原インター店はいつもあまりよいものがないので、いかない。江南赤童子店は愛知県で、自宅から車で30分くらいか。いつもながら、100円文庫と新書を中心に見る。それほど驚くような発見はなかったが、それでも結構買った。佐藤正午佐藤亜紀の小説、多田富雄先生、岩波文庫赤のズーデルマン(なつかしの相良守峯訳)、平凡社ライブラリーのブレイク詩集など。講談社文芸文庫の木下杢太郎随筆集があったが、ここでも高価で、断念。ひさしぶりに BOOK OFF で流行歌を聴いたなあと思う(まったく知らない曲ばかり)。レジの女の子、めちゃめちゃ無愛想。でも、それは別にどうでもいい。意外とお客さん、いるかなと思った。

帰りに「珈琲屋 明楽時運 掌福 各務原店」に寄る。「明楽時運」は「アラジン」と読むらしい。オシャレな喫茶店だが、ふつうに「ホットコーヒー」といって注文したコーヒー(450円)は特においしくも何ともなかった。コーヒーの香りが全然しない。席は八割がた埋まっている感じだった。
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BOOK OFF で買った、池内紀さんの新書本『闘う文豪とナチス・ドイツ』を読む。ここで「文豪」というのはトーマス・マンのこと。なかなかおもしろい。読んだところまででは池内さんはマンを無謬の人のように全肯定で書いているが、つまりこれは暗に現代日本批判なのかも知れない。つまり、ナチス・ドイツ現代日本を重ね合わせているわけだ。というのはわたしの勝手な空想だが(あとがきを読むと、そこまで意図的な書物ではないかも知れない)。わたしはそれほどマン全肯定の人ではないけれども、まあわたしに何がわかるかというところである。マンはナチスによってドイツからほっぽり出されたので、ある意味では誤謬をおかさず、運がよかったともいえる。それだけ、亡命者として、ナチス政権下のドイツ国内の人間にはむやみときびしかった。

ウェブで見られる川本三郎さんの本書書評ではマンが自発的に亡命したように読めるが、これは明白に誤読である。本書からわかるが、マンはたまたまドイツから出たところ、ナチスから帰国禁止の通告を受けたのだった。本書が正しければであるが。
 ぐぐってみると、池内さんが著者インタヴューで言っておられるのは、マンが様々な情報を決して鵜呑みにしていないということである。それは既に読んだ部分にもあった。そして、情報が安直に手に入る現在において、という言い方をなさっている。

早寝。

大岡昇平『成城だより II』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第二番 BWV826 で、チェンバロは辰巳美納子(NMLCD)。揺るぎないよい演奏。大きな射程。■ハイドン弦楽四重奏曲第二十三番 Hob.III:35 で、演奏はハンソン四重奏団(NMLCD)。よい曲。ハイドンの曲でフーガで終っているというのはめずらしい感じがする。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十番 Hob.XVI:37 で、ピアノはジョン・オコーナーNML)。

 
昼から県営プール。雨ぱらつく。


夜、大岡昇平『成城だより II』読了。おもしろいなあ。何にも読めなくてもこれは読める。学生の頃、僕は「キックがある」という表現をよく使っていて友人からわからないといわれたものだが(強い蒸留酒のことを想起して下さい)、それをちょっと思い出した。これは確かに「キックがある」。ぐいぐいと頭の中に文章が入ってくるのだ。読みながら、当たり前なのだが到底敵わないなとつくづく思った。ほんと、懐が深いですよ、大岡さんは。小林秀雄とはまたちがったタイプの横綱だと澁澤龍彦は大岡さんを評して言ったが、まことにそのとおりであると思う。何でもあるブログによると、丸谷才一氏は大岡さんをして「戦後最大の小説家」と評したそうだ、本当に丸谷氏がそう言ったのかは知らないが。まあしかし、そういうことはよいのだ。わたしには大岡さんは好きなタイプの文学者だ、それだけでよいのである。

成城だより? (中公文庫)

成城だより? (中公文庫)

しかし、文庫解説に相当する保坂和志氏のエッセイは何ゆえ収録されているのだろうね。大岡って下らないけれどまあちょっとだけ尊敬する(しかもほとんど読んだことがないのに!)とかいう内容なのだが、保坂ごときが何をいっているのだろうとわたしなどは思う。まあ、保坂氏の小説その他はわたしごときには高級すぎるようだしね。

こともなし

晴。
幸福な夢を見ていた。せめて夢だけでも幸福だといい。

メジロが番いでチクチクチクチク鳴いている。柿の木にいる。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはジャン=ピエール・ランパル、ハープはリリー・ラスキーヌ、指揮はジャン=フランソワ・パイヤール、パイヤール室内管弦楽団NMLCD)。すばらしい。■メンデルスゾーンピアノ三重奏曲第二番 op.66 で、演奏はボザール・トリオ(NML)。「メントリ」っていわれる(らしい)第一番ほど有名ではないかも知れないが、これもいい曲だよね。メンデルスゾーン室内楽はどれも好きだ。

 
日没前、ドラッグストアまで散歩。
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だいぶダメになったのだが、それだけだとただのダメなおっさんなので、どうにか脱出したいところ。

その状況でどうしたら適切に脱出できるかわかればよいのだが、ここまで生きてきてもなかなかむずかしくて適切な対応をつい忘れてしまう。

文庫版『成城だより II』を読む。おもしろくてつい読み続けてしまう。さて、どうでもよいことだが、本書中に大岡さんが「マイナスとマイナスを掛けるとどうしてプラスになるか知っているか」といって来訪者を煙(けむ)に巻く(というかいじめる)話があるけれども(p.32)、考えてみるとこれは意外とむずかしい。もちろんそれが定義だからといってしまえばおしまいだが、どうしてそう定義するとうまくいくのかはやはり説明が要るだろう。じつは大岡さんもわからないのであるが、いま風呂でつらつら頭を捻ってみると、「マイナス」っていうのは加法の逆元の表現なわけだな。しかし「マイナスとマイナスを掛ける」というのはもちろん乗法の話である。つまり、加法と乗法の組み合わさっている「体論」(あるいは環論)で考えないといけないことになる。そこで、自分が体論に関してあやふやなことに気づいた。文系の大岡さんを笑っていられない。

ぐぐってみるとネットにはいろいろな説明があるが、気づいた中で正確な説明はこれ。
hooktail.sub.jpなるほどという感じ。群論と体論(という言葉は使っていないが)の本質的な議論を踏まえた説明である。
 
夕食後も『成城だより II』を読み継ぐ。つい数学の記事が目についてしまうが、家庭教師をつけて非常にむずかしいことを勉強しておられるので驚いてしまう。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった柄谷行人の数学がハッタリだと見抜いてしまっているのが七〇過ぎのじいさんだとは信じがたい。もっとも、大岡さんは柄谷を評価していないわけではないので、懐の深いことである。それにしても、いまの朝日新聞の書評欄を見ているとその柄谷行人の知的緊張感が既に失われてしまっているのを思えば、大岡さんの頭の若さを思わざるを得ない。文学でも、ドキッとする記述が至るところにある。筒井康隆の『大いなる助走』の文庫解説を書くなど、いったいどうなっているのか。誰が書いていたか忘れたが、この日記が現代の奇書であるというのは、もっともなことである。

個人的なことだが、この『成城だより II』は明らかに既読だ。単行本はもっていない筈だが、いつどこで読んだのだろうな。

■ニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)の交響曲第五番 op.18 で、指揮はエフゲニー・スヴェトラーノフロシア連邦国立交響楽団NML)。片山杜秀さんのお好きな「ミャス5」。まあ、確かにおもしろくないことはない。未知の領域。

Myaskovsky:Complete Syms Vol.5

Myaskovsky:Complete Syms Vol.5

■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、チェンバロは辰巳美納子(NML)。
バッハ:パルティータ(全曲)

バッハ:パルティータ(全曲)

  • アーティスト:辰巳美納子
  • 出版社/メーカー: ALM RECORDS
  • 発売日: 2016/08/07
  • メディア: CD

名古屋市博物館へ

晴。好天。
十一時間くらい寝る。ある女の子の夢を延々と見ていた。それにしても寝過ぎ。

家族で名古屋市博物館へ、下の甥っ子の習字を見に行く。まあ何かで入賞したので、オジイオバアが見に行くみたいな会だ。ついでに、当所で開かれていた「発掘された日本列島2019」展を観る。これは毎年各地方のどこかでやるもので、これまで行けるときは結構行ってきた。なかなかおもしろいですよ。特に縄文土器に惹かれる。例えばこんなの。
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わたしは縄文時代が好きである。

港区の「香月」で天ぷらうどんを食べた後に、妹のところに寄る。勉強を見ている上の甥っ子は、最近ではわりと落ち着いているようだ。下の方は反抗期真っ只中なのだが、それでも家族旅行には付き合うようだから、心配はないのだろう。いろいろ一時間ほど談笑してお暇(いとま)する。今日は街路樹がきれいに色づいているところがあったな。いい一日だった。

マスコミのいうことを信じているのは「情弱」で、真実はネットにありとはわたしも少しそう思っていたところがあったが、最近のネットにはとてもついていけない。愚者の思考あるいは老化であるかも知れないが、ネットが仮に真実(いまさらだが、わたしは日本でも、何が「真実」かわからなくなってきた)だとしてもついていけないのだ。マスコミはクズかも知れない、しかし(わたしも含めた)ネット民も、どう思ってもクズだろう。そう思うしかなくなっている。わたしももうおしまいなのかも知れない。

何というか、これほどまでに口汚い、冷笑的な言説が仮に生産的であるとして、ではそれは何なのだろう。わたしは絶望を深めるだけというのが本当のところである。

結局、真理などはないのだが、真理がないというのも真理ではないので、そこに立ち戻るしかない。ゆっくりじっくり考えよう。


NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十一番 op.22 で、ピアノはロレンツォ・ゴッシ(NMLMP3 DL)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第四番 K.157 で、演奏はフェシュテティーチ四重奏団(NMLCD)。

シューマンの「謝肉祭」 op.9 で、フォルテピアノは小倉貴久子(NML)。うーん、フォルテピアノ、おもしろいではないか。僕はこれまでフォルテピアノ全否定派だったのだが、これはすばらしい演奏だ。こんな演奏が可能だとすると、フォルテピアノだからダメというわけにはいかない。確かに高音域は苦しいが、迫力は充分。小倉貴久子という人はフォルテピアノに特化した演奏家なのか知らないが、少なくともこの演奏に関する限り、現代ピアノに勝るとも劣らないものを聴かせていると思う。

■エネスクのヴァイオリン・ソナタ第三番「ルーマニア民族風で」 op.25 で、ヴァイオリンはディアナ・ティシチェンコ、ピアノはゾルターン・フェヘールヴァーリ(NMLCD)。

こともなし

曇。
知らない学校(高校?)の夢を見た。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトクラリネット協奏曲 K.622 で、クラリネットはジャック・ランスロ、ジャン=フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール室内管弦楽団NML)。

モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲&クラリネット協奏曲

モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲&クラリネット協奏曲

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十六番 op.81a で、ピアノはロレンツォ・ゴッシ(NML)。

ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日、街頭にて」で、ピアノは Jan Bartoš (NML)。よい。

 
ガソリンスタンド。図書館。

昼から県図書館。肉屋。スーパー。

図書館から借りてきた、南直哉『「正法眼蔵」を読む』を読む。第三章まで読んだ。この禅僧はどうして形而上学を構築して、わざわざ煩悩を増すのかな。まあ、形而上学がいけないということはないのだが。しかし、これは禅僧にして、完全に分別の産物ではないか。柔軟心というものがまるでない。ってまあ、わたしのごときが言っても仕方ないのだが。どうでもよいのだけれど。
 それは措いても、引用されている道元禅師にはますます興味が湧く。ってお前、仏教とか言いつつ道元も読んでないの?って感じ。わたしは下らんなあ。


図書館から借りてきた、KAWADE夢ムック『澁澤龍彦ふたたび』を読む。正直言ってうんざりした。おもしろかったのは中沢さん(若い頃の文章だ)や諏訪哲史さんの文章くらいか。わたしは澁澤さんのことが好きな人が嫌いなのかも知れないと、天に唾しておこう。別に自分を特権的な位置に置きたいわけでもないが、中沢さんの書くとおり、澁澤龍彦からフェティッシュを抽出して消費する輩にはうんざりさせられないでもない。諏訪さんの書くとおり、澁澤龍彦は幼稚なことを書く子供のような奴が大嫌いだった筈である(これも天に唾)。エラそうで御免なさい。

わたしにとって澁澤とは、日本語の人であり、想像力の人である。イメージの人であり、あるいは観念の人であるといってもよい。それにしても、イメージがどれだけバカにされてきたことか! 紋切り型の言で申し訳ないが、退屈極まりないまさに「想像力の貧困」。氾濫する凡庸なイメージの洪水。まあしかし、それらは澁澤とは何の関係もない。

早寝。