こともなし

曇。
知らない学校(高校?)の夢を見た。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトクラリネット協奏曲 K.622 で、クラリネットはジャック・ランスロ、ジャン=フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール室内管弦楽団NML)。

モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲&クラリネット協奏曲

モーツアルト:フルートとハープのための協奏曲&クラリネット協奏曲

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十六番 op.81a で、ピアノはロレンツォ・ゴッシ(NML)。

ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日、街頭にて」で、ピアノは Jan Bartoš (NML)。よい。

 
ガソリンスタンド。図書館。

昼から県図書館。肉屋。スーパー。

図書館から借りてきた、南直哉『「正法眼蔵」を読む』を読む。第三章まで読んだ。この禅僧はどうして形而上学を構築して、わざわざ煩悩を増すのかな。まあ、形而上学がいけないということはないのだが。しかし、これは禅僧にして、完全に分別の産物ではないか。柔軟心というものがまるでない。ってまあ、わたしのごときが言っても仕方ないのだが。どうでもよいのだけれど。
 それは措いても、引用されている道元禅師にはますます興味が湧く。ってお前、仏教とか言いつつ道元も読んでないの?って感じ。わたしは下らんなあ。


図書館から借りてきた、KAWADE夢ムック『澁澤龍彦ふたたび』を読む。正直言ってうんざりした。おもしろかったのは中沢さん(若い頃の文章だ)や諏訪哲史さんの文章くらいか。わたしは澁澤さんのことが好きな人が嫌いなのかも知れないと、天に唾しておこう。別に自分を特権的な位置に置きたいわけでもないが、中沢さんの書くとおり、澁澤龍彦からフェティッシュを抽出して消費する輩にはうんざりさせられないでもない。諏訪さんの書くとおり、澁澤龍彦は幼稚なことを書く子供のような奴が大嫌いだった筈である(これも天に唾)。エラそうで御免なさい。

わたしにとって澁澤とは、日本語の人であり、想像力の人である。イメージの人であり、あるいは観念の人であるといってもよい。それにしても、イメージがどれだけバカにされてきたことか! 紋切り型の言で申し訳ないが、退屈極まりないまさに「想像力の貧困」。氾濫する凡庸なイメージの洪水。まあしかし、それらは澁澤とは何の関係もない。

早寝。