こともなし

晴。

午前中はごろごろ。

午後からもごろごろ。

イオンモール各務原ユニクロでハイネック二着買う。ユニクロはでかい鏡だらけで、ぼーっとしたしょぼくれたおっさんが映っている。まあよろしいか。購入システムに戸惑う。早口で甲高い声の女の店員さんの言っていることが聞き取りにくい。ジジイ化。
ミスタードーナツフレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。ザミャーチンの続き。さすがに SF としてはチャチだけれど、おもしろいですよ。結構モダニズムだ。

酒屋。

鈴木大拙「華厳の研究」(全集第五巻)を読み終える。華厳経と中国における禅との対比がむずかしい。でもこれがわからなければ、本論文がわかったことにはならない筈である。中国語とサンスクリットの世界の相違。荘厳広大で比喩として何でも使ってしまうサンスクリットの世界と、日常語での簡潔な中国語の世界。それがいずれも大乗仏教であるところが、各民族がいかに仏教を独自に消化したかを物語っている。この柔軟性、いきいきと生きた精神が大乗仏教の価値だ。
 しかし、わかったようなことを書いたが、わたしに華厳はむずかしい。『レンマ学』を参考にしてもまだとてもむずかしい。

こともなし

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十四番 op.78 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2 で、ピアノは岩崎洵奈(NMLCD)。なかなかいい。

昼寝。


珈琲工房ひぐち北一色店。ザミャーチンの『われら』を読む。これはおもしろい。オーウェルが発見したロシアのディストピア小説とのことである。いまでいえば SF のジャンルに入れてもよいであろう。自分は現在が、高度に知的な人物が SF を好んで読むという意味で「SFの時代」であると思っているが、本書は現代に適合的であるともいえようか。ちなみに、わたしは現在では反SF的であるかも知れない。高校生の頃は、SF ばかり読んでいたのですけれどね。


ツェルニーの「ウィーンのワルツによる変奏曲 『あこがれのワルツ』」 op.12、アルフレート・グリュンフェルト(1852-1924)の「ウィーンの夜会 - シュトラウスによるパラフレーズ」で、ピアノは岩崎洵奈(NMLCD)。なかなかよい。■パウル・ユオンの室内交響曲変ロ長調 op.27a で、演奏はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のメンバー(NMLCD)。

坂本龍一の『async』を聴く。
僕は坂本龍一の底を踏み破っているのか、ちょっとわからないなと思った。他日、別のアルバムを聴いてみよう。このアルバムはまた一年後くらいに。

Async

Async

柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』

曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。


「資本主義を変質させねば」というからには、資本主義は変っていないということか。いや、それはちがうともいえる。従来の軌道をどんどん進めているという点では、確かに変っていっている。しかし、従来からの方向はまったく変えていない。我々の考えねばならないのは、その方向を変えるということだ。資本主義の「変化」が我々を変化させている以上、我々の変化が資本主義を変化させねばならないということであろう。もはや「思想」を変えるしかないのだが、たぶんそれはほぼ絶望的にムリなわけだな。

ちと話の主語が大きすぎるわけだが。

ラグビーW杯、日本がアイルランドに劇的勝利。テレビを見ていて、すごかった。しかし、まさか勝つとは…。最後、はやく時計が進めと思ってしまったね。


柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』読了。秀才の仕事。僕はベンヤミンの翻訳書はすべて文庫版でちょうど二十冊もっており、そのすべてに目を通しているが、いまだにまるでわからない(こういうのは読んだといわない)。本書もわたしの能力を超えている。アホは困りますなあ。
 なんかベンヤミンって読んでいるとカッコいいという雰囲気で、かつてはベンヤミン云々ってしょっちゅう言われていたし、うるさかったなあ。こちらに能力と教養がなさすぎて、ベンヤミンのどこがおもしろいのかいまひとつわかっていない。まあ複製芸術による「アウラの消滅」とか、そういう紋切り型のわかりやすい話はもちろん誰でもわかるけれど。それから、あの面倒な「パッサージュ論」まで邦訳さらに文庫化までされていて、目を通したのはいいのだけれど、結局何だったのだろうという感じ。さらには、『ゲーテの「親和力」』とか『ドイツ悲劇の根源』とか? そういや学生時代に東京の知人のところに泊めてもらっていて、岩波文庫の『暴力批判論』を読んでいたら、知人がげんこつを突きつけてきて、「批判してみろー」とか言っていたっけ。まあそんなこんなだから、本書はわたしには高級すぎますね。にゃお。

そうそう、ベンヤミンといやパウル・クレーの「新しい天使」だったね。本書もクレーから始まっている。で最後はピレネー山中で自殺したと。


NML で音楽を聴く。■モーツァルトオーボエ協奏曲 K.314 で、オーボエはランダル・ウォルフガング、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノは岩崎洵奈(NML)。何度も途中で聴き止めようと思ったのだが、結局最後まで聴いてしまった。いまの自分と相性がよいのかな?

ジェイ・セカンド ~バラード~

ジェイ・セカンド ~バラード~

ショパンのバラード第二番 op.38、第三番 op.47、第四番 op.52 で、ピアノは岩崎洵奈(NML)。岩崎洵奈のバラード全曲を聴いてみた。大満足。このピアニストがよいそれか自分にはまったくわからないのだが、少なくともこれはよい。じつに素直なバラードで、しかしポイントは的確に掴んでいる感じ。西洋人的な強い個性はないが、だからといってつまらないとは限らないのだ。これぞよい意味での日本人ピアニストの演奏だと思う。(追記。検索していたら、ショパン・コンクール(ディプロマ賞)でアルゲリッチに「自然で美しい演奏」と賞賛されたとか。アルゲリッチと全然ちがうタイプなのだが、さすがにアルゲリッチは広大だねえ。)■ブラームスのピアノ四重奏曲第三番 op.60 で、演奏はエリゼーン四重奏団(NMLCD)。

こともなし

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus IX a 4 alla Duodecima, X a 4 alla Decima, XI a 4 で、ピアノはセリメーヌ・ドーデ(NMLCD)。■バッハのオーボエ協奏曲ニ短調 BWV1059 で、オーボエセリーヌ・モワネ、指揮はヴェルナー・エールハルト、ラルテ・デル・モンドNML)。

Oboe Concertos

Oboe Concertos

細川俊夫の「ドローイング」で、指揮はルイージ・ガゲーロ、ウーホ・アンサンブル・キエフNML)。
Gardens

Gardens

ショパンマズルカ op.6-1, 6-2, 6-4, 7-1 で、ピアノはアンナ・ゴラーリ(NML)。なかなかいい。
Mazurka Diary (Dig)

Mazurka Diary (Dig)

 
『日本の大転換』を読み直してみたのは個人的にとても大きかったな。あれで、どうして日本人が大きく変ってしまったのか、結び目がスッと解けるようによくわかった。それは、何の関係があると思われるかも知れないが、現在の資本主義が計算・計量可能なもの以外をどんどん排除し、自閉していっていることと関係がある筈である。まあ、多くの人には、コイツなにいってんのでしょうね。それはよいのだ。これは自分には小さくない突破だった。もっといろいろ関連して考えられる筈である。

しかし東日本大震災原発事故は資本主義を日本から変質させていく大きなチャンスだったのに、それに完全に失敗したことは明白だな。やはり、いまの日本人には無理だったのかということになる。自分も今ごろこんなことが見えてきて、じつに何も見えていなかったのだなと恥ずかしく思う。

國分功一郎『原子力時代における哲学』

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第五番 op.10-1 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■パウル・ユオン(1872-1940)のピアノ五重奏曲 op.33 で、演奏はチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のメンバー(NML)。

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

Quintett op.33 / Kammersinfonie op.27

リゲティ弦楽四重奏曲第一番「夜の変容」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。


昼から図書館。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー410円。國分功一郎さんの『原子力時代における哲学』の続き。第三講の途中まで読む。ハイデッガーがわかりやすく解説されるのであるが、ちょっとわたしの能力が足りないね。ハイデッガーイオニア哲学によるプラトン批判が、原子力発電批判になっているというところがよくわからない。アナクシマンドロス断片が特に全然わからない。アホには哲学マジむずかしいぜ。でも國分さんが誠実な思考をしているのはわかる。あと、ハイデッガーの「土着の思考」みたいなのは個人的によくわかるけれど、わたしは田舎者としての自分をハイデッガーで補強しようとかは全然思わない。これは原発にはあんまり関係ないけれど。僕に「土着の思考」みたいなのがあるとすれば、たぶんそれはオレオレ仏教の方に関係がある気がする。

イオンモール未来屋書店に寄ったら岩波新書の新刊が入っていたので、以前から買おうと思っていたのを購入。BGM でショパンのバラードが流れていましたな。


■マルク=アンドレ・ラパスの「ムーヴマン」で、演奏はオルティス四重奏団(NMLCD)。

國分功一郎原子力時代における哲学』読了。うーん、わからない。ハイデッガーの「放下」はまあわかる気がする。何なら(オレオレ)仏教的に理解してもよい。しかし、その「放下」(それは漠然とした一般論であろう)が原発批判になるというのがよくわからない。頑張って(まあ頑張っちゃいけないんだろうけれど)「放下」すれば、原発批判の言説が意志を介さずおのずと心中に浮上してくるのであろうか。それこそが真の原発批判である、と。というか、オレまったく國分さんの議論が読めていないのではないの?
 第四講の中沢新一批判。國分さんは「中沢さんの議論でほとんどよい」という。ただ、中沢さんの議論は「存在」の議論から「当為」の議論へ性急に移行しており、このままだと人々を「考えさせない」ためのドクトリンになるという。つまり中沢さんの議論を念仏のように繰り返しておけば、何も考えずに安易に「原発批判」ができてしまう、と。なるほど、これはそうでないとはいえない感じもする。いずれにせよいい機会だから、中沢さんの『日本の大転換』を読み返してみるとしよう。
 それから、「原発の魅力=ナルシシズム」論もわたしにはむずかしいなあ。著者はナルシシズムは世界から目を逸らすことであり、否定すべきことであると述べている。確かにナルシシズムすなわち幼稚である。しかし、わたしにはロマンティシズムもナルシシズムも確実にある。ということは、わたしも反原発とかいいながら、じつは原発が好きなのかも。まあ、それはわたしの幼稚性をはっきり示しているということであろう。ほんとクズだなあ、こいつは。

「日本の大転換」を読み返してみた。その過激さにびびった。原発一神教・資本主義との同型構造の指摘など、他人から批判されたのも当然である。しかしこれは、ただの反原発の書なんてものではないね。まさに一神教文明が作り出した現在の資本主義への、苛烈な批判そのものである。浅はかな人間の理解を到底超えていて、まさにあの時でないとむしろ言えなかったことかも知れない。しかし、資本主義が外部を消そうとする、自閉的なバイアスをもっていることの指摘などは、少しづつ理解されてきているような気がする。例えば東さんなどは、(中沢さんからの発想ではないだろうが)我々は等価交換の外部を必要としていると、うまいことを最近言っていたな。わたし個人はいま本書を読み返してみて、中沢さんのいう「キアスム(交差)構造」という言葉が気になった。これは、日本人が長年にわたって築き上げてきた、日本人には比較的親しいある考え方を指していう概念である。これは「社会」に本来備わった、人間同士を結びつけていく作用とも説明されている。もちろんこれは日本(人)に限ったものではないけれども。しかし、「社会」! いまや「社会」も徹底的に計量され、脱臭されサニタイズされた存在に(世界中で、つまり日本でも)なりつつあるのだ。この論文を読んで、そんなことを思ったのだった。併録されている「太陽と緑の経済」も読み返してみよう。

日本の大転換 (集英社新書)

日本の大転換 (集英社新書)

結局、我々は資本主義を変質させていかねばならない。例えばグレタ・トゥーンベリ氏の発言も、その文脈で理解する必要があるだろう。しかし、東日本大震災原発事故を経験した我々すらほとんど変わることができなかったのだ。むしろ反動がきている。トゥーンベリ氏の怒りも、そう思えば当然ともいえるかも知れない。しかし残念ながら、わたしはトゥーンベリ氏に「許さない」といわれつづけるであろう愚物なのであるが。

しかし、「資本主義を変質させていかねばならない」というが、問題は「どこへ? どうやって?」なのだ。それへ向けてもっとも掘削を進めているのが中沢さんだとわたしは認識しているが、もちろんわたしの認識はほとんどの人間の共感を呼ばないだろう。そして、トゥーンベリ氏が話題になったのは、もう時間がないかも知れないということゆえだ。しかし、時間がなくとも我々は地道にやるしかないのである。我々を非難する若い人たちが、我々の考えつかなかったことを実現させる日が確実に来るらしいから、それまでは。

いまほど思想が必要なときはない。「中二病」者のわたしはそれを痛感する。

ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(下)』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus IV, V, VI a 4 in Stylo Francese, VII a 4 per Augmentationem et Diminutionem, VIII a 3, Canon III alla Decima in Contrapunto alla Terza, alla Ottava で、ピアノはセリメーヌ・ドーデ(NMLCD)。■モーツァルトクラリネット協奏曲 K.622 で、クラリネットはチャールズ・ナイディック、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。


図書館から借りてきた、ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(下)』読了。読み終えて何をブログに書こうかなと思ったが、正直なところ自分の論評能力を超えた大変な力作であるという他ない。深い感銘を以て読み終えた。つまるところ、アメリカの凄さは学問だなという感じがある。アメリカ人にここまで日本のことが書けるのだなというのは、驚きというか、その目配りの広さと妥当性を考えるとそのような言葉では不十分なくらいだろう。わたしが本書を読み終えてさてさらに読むとしたらと思ったところでは、まずは日中戦争から敗戦まで、十五年間にわたる戦争全体を視野に入れた良質の本が読みたくなった。そのような本はおそらく存在するのだろうが、具体的な対象がわたしには思い当たらない。探してみたいものである。あともうひとつは、敗戦後の日本の(経済)発展と、その終焉についてである。本書における結論は、日本の経済発展を可能にしたのは「日本と占領軍のハイブリッド・システム」のようなものであると総括されており、また戦時体制からの「正の遺産」も忘れられていないが、そのあたりはもう少し突っ込んで知りたいところである。ただ、これについてはコンパクトな本はいまだ存在しないかもしれない。そしてわたしの世代に関係するところはいわゆる「日本経済の没落」であり、わたしが育ってきた八十年代は日本の発展はその頂点にあって、その当時は日本の国際的地位が将来これほど地盤沈下するとはつゆ思われておらず、我々の世代はその達成に有頂天になって遊び呆けていた。個人的なことだが、わたしは学生時代その有り様に強い危機感を抱いていたが、結局これまでそれに対し何ひとつすることができなかったのである。わたしが自分で納得したいのはそんな意味合いもある。なんか話がそれたが、本書は強い印象の残る本だった。若い人たち、大学生くらいなら読めると思うから、是非勧めたい。

敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人

なお、上でわたしは自分の世代に対して否定的なことを書いたが、それは一個人による狭い範囲の見聞である。わたしの世代がバカみたいに遊び呆けて勉強しなかったのはおおよそ真実であり、広く妥当すると思うが、例外もおそらくはいただろうし、そもそもそれが没落の原因かは軽々には断定しがたい(客観的に見ると、我々の世代は没落に際してなすすべもなく呆然としている世代な気もする)。いずれにせよこれからこの没落=「日本病」の原因はこぞって探求され、様々な意見が出てくるだろう、というかそれは既に始まっている。わたしもまた、自分なりの納得がしたいのだ。

こともなし

晴。
庶民的というか野蛮で土俗的な夢を見る。わたしにもプリミティブなところは残っているのだなと思う。庶民的なわたしは意外とハードボイルドだ。じゃあ、庶民的でないわたしは? 知らねーよ、そんなこと。

寝る。

午後、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。今日は家族の分のドーナツも買った。『敗北を抱きしめて』の続き。第四部まで読了。なかなか読み進みませんね。でもおもしろい。戦後の CCD (民間検閲部)による検閲はひどいものだったのだな。気まぐれで神経質で原則もなければ、検閲の存在すら抹消しようとした。そして、自己検閲に誘導する悪質さ。とても民主主義によるものとはいえず、本書では「検閲民主主義」という皮肉っぽい表現が使われている。まさにアメリカの恥といわざるを得まい。江藤淳が問題にして『閉ざされた言語空間』を書いた筈である。


日没前、散歩。
20190924174322
ぱおーん。
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今年は彼岸花があまり咲いていない。夏が暑すぎたからか知らん。
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NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」 op.55 で、指揮はエサ=ペッカ・サロネンシンフォニアグランジュ・オ・ラック(NML)。さすがはサロネン

Beethoven: Symphony No. 3 "Eroica" - Strauss: Metamorphosen

Beethoven: Symphony No. 3 "Eroica" - Strauss: Metamorphosen

  • 発売日: 2019/09/06
  • メディア: MP3 ダウンロード
■デュティユーの「夜はかくの如し」で、演奏はオルティス四重奏団(NML)。
Dutilleux / Rappaz / Ligeti: String Quartets

Dutilleux / Rappaz / Ligeti: String Quartets

  • アーティスト:Ortys Quartett
  • 出版社/メーカー: MGB
  • 発売日: 2016/11/18
  • メディア: CD
ブラームスのピアノ四重奏曲第二番 op.26 で、演奏はエリゼーン四重奏団(NMLCD)。すばらしい演奏。この曲はリヒテルのピアノ+ボロディン四重奏団の録音で何度も聴いてきたが、それとはちがった名演だ。こういう演奏だと、傑作揃いのブラームス室内楽の中でもこの曲がトップクラスの出来だということがよくわかる。感動しました。


「この子を冷笑するクズな大人たち」というツイートがあったけれど、僕はまあ冷笑するつもりはないけれど、あーあって感じ。もうすぐ家族で旅行に行く予定だけれど、(地球温暖化を促進する)飛行機とか使って旅行なんてする奴はクズという文章をネットで読んで、ほんとあーあって感じ。わたしは意識低い系らしいのだよね。

自分がまちがっていることはわかっているけれど、僕はこの子は好きになれないな、何となく、感情的に。しかしまあ、世界を変えるとかそんなものか。正義の味方は自分みたいなクズとは人間の出来がちがうわな。最後に正義は勝つ。

地球温暖化が問題なのはまちがいない。では、具体的に我々に何が出来るのだろう。飛行機を使わない? 自動車を使わない? エアコンはいいの? パソコン、スマホはいいの? そもそもクズの存在が地球温暖化に悪いから、抹殺すべきとかならないよね?

ガタリの『三つのエコロジー』には何が書いてあったっけ。読み直してみるか。


それにしても、つくづくネットってかなわんな。ネット見るのも気が滅入るし、ブログを書くのも気が滅入る。じゃあ書かなきゃいいじゃんって、そうだなあ…煩悩だよなあ…

彼女の演説を何回か聴いてみて、「お金の話ばかり! 永遠の経済成長とか、おとぎ話ばかりして!」という糾弾は、やはりまちがっているように思える。まじめに地球温暖化の問題を考えるからこそ、「お金」の問題で苦労しているのだ。「持続可能な経済成長」というのも、どうしても必要なのである。そうしないと、そういう過程で実際に貧乏人が死ぬのだ。彼女のような裕福な階層の人間は、経済成長がなくとも死なないが。確かに資本主義が詰んでいるといえばそうだが、我々は他に選択の余地が(いまのところ)ない。

それから、彼女の言っているとおり、「彼女を利用している人間は恥を知れ」というのは正しい。なぜそういいつつ彼女が甘んじて利用されているのかは、わたしにはよくわからないが。

結局、彼女のいいたいのは「市場主義経済はダメ」ということになるのだろうか。そうなると、自分は彼女を支持できなくなる。それとも、彼女の中にはうまい逆転満塁ホームランがあるのだろうか。これこそ、クズな大人の屁理屈?

しかし、若い人たちが「大人はまったくダメ」というからには、何か大人たちを驚かす秘策があるのだろう。凡庸な大人たちは、子供たちが秘策を発揮してくれるまで、大人たちで地道に考えていくしかない。優秀な子供たちを持って、世界の未来は明るい筈だ。かかる明るい未来が到来すれば、結果的に我々が若い人たちから罵倒されるのは当然であろう。