こともなし

休日(秋分の日)。雨。台風のせいで蒸し暑い。
等身大の自分に近い夢を見る。こういうのもめずらしい。なんか、北陸の古本屋に行ったりしていた。

NML で音楽を聴く。■ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114 で、クラリネットはアレクサンドル・ベデンコ、チェロはキリル・ズロトニコフ、ピアノはイタマール・ゴランNML)。

■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Contrapunctus I, II, III で、ピアノはセリメーヌ・ドーデ(NML)。

L'art De La Fugue

L'art De La Fugue

  • アーティスト:J.S. Bach
  • 出版社/メーカー: Imports
  • 発売日: 2013/07/02
  • メディア: CD
 
午前中、甥っ子の勉強を見る。
妹一家来訪。皆んなでご飯を食べて少し話して帰っていった。子育てマジでむずかしすぎる。それに、わたしから見るといまの子供たちの闇は深いな。逆に子供たちからすると、わたしのようなおっさんの闇が深いということになるのだろうが。まあ、わたしなどにエラそうにいえる資格は何もない。


日没前、一時間ほど散歩。
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ついでにお墓参りもしてきた。


アニメというのは人工世界の構築の一種だな。それはいまや自律性をもって拡大しつつあり、その作法に魅力を感じる感受性をもった人間たちが「オタク」だといえるのかも知れない。その感性は一般的になり、いまや「現実世界」(そのようなものがあるとしてだが)を変えようとしている。たぶん、それはもはや止めようがないし、もちろん止めることが正しいとア・プリオリに決定することはできない。ただし、おそらくわたしはそのような作法を身に付けることがついに不可能だということだ。端的にいって時代遅れとはそのことである。

まあ、クソ面倒なことを言っていないでアニメを見たらいいんですよ、つべこべ言わないでね。

マンガとかゲームその他もその系を構成しているということは申すまでもないだろう。

國分功一郎さんの『原子力時代における哲学』を読み始めた。とりあえず第一講を読んだが、非常におもしろい。まずは導入だから日本への原子力発電導入の歴史など、雑多な話もなされるし、アレント原子力についての考えもまとめてある。國分さんが調べたところ、核兵器について発言している哲学者は多いが、原子力発電について発言している人はほとんどいないそうだ。アレントは少し触れているだけだそうだが、これでも貴重な存在なのだという。しかし、例外、それも超大物がいて、それがハイデッガーだというのだ。本書の残りは、どうやらそのハイデッガーの議論をもとに、話が進められていくらしい。ざっと見たところ最後には中沢さんへの批判などもあるようで、非常に楽しみである。それにしても1950年代では「原子力の平和利用」という欺瞞はじつはとても魅力的だったようで、武谷三男大江健三郎といった人たちまで、「原子力の平和利用」の積極的賛美者だったというのがおもしろい。で、例の正力松太郎ね。まったく生臭い話である。
 しかし國分さん、自分はもう國分さんを積極的にフォローするつもりはないのだけれど、やはりこの人は能力が非常に高い上に、むずかしいことをわかりやすく魅力的に語る才能がある。若い哲学者の中では、まことに頼もしい存在だ。

稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』

日曜日。曇。
キッチュでヤンキーな夢を延々と見る。フルカラー。我ながらよくわからぬ無意識だなあ。おもしろかったけれど。

ネットを見ていてイヤな気分になる。
二度寝。一日二十四時間寝ていたい感じ。退行。硬直化。


稲葉振一郎『AI時代の労働の哲学』読了。

いわゆる bot の著者の理解(p.152-155)はまちがっているのではないかな。bot は個々のコンピュータ内で自律的に動くコンピュータ・ウィルスとはちがって、サーバ上に置かれたプログラム(クローラー)がスクレイピングしているだけだと思うのだけれど。まあ自分にはどうでもよいことだが、本書の展開にはどうでもよいまちがいとはいえないかも知れない。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三番 op.2-3 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■パレストリーナの「教皇マルチェルスのミサ曲」で、指揮はマッシモ・パロムベッラ、システィーナ礼拝堂合唱団(NML)。

MISSA PAPAE MARCELLI &..

MISSA PAPAE MARCELLI &..

 
雨。
珈琲工房ひぐち北一色店。おいしいコーヒーで多少気が晴れた。『敗北を抱きしめて』の続き。新憲法制定の過程はどの本を読んでも複雑だが(かつて読んだ古関彰一『日本国憲法の誕生』はおもしろかった)、本書はコンパクトによくまとまっている。本書の記述はどこを読んでもバランスがよいので、若い人が読むのにちょうどよい本なのではないか。

マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』

昧爽起床。涼しい。

暗い部屋で寝転がりながらいろいろ考えるともなく考えていた。ぼーっとしているときは冥いこととか一切思わないのだが。
本を読んでいると、あるいはネットを見ていると、世の中秀才ばかりで困るという感じ。まあ秀才の本はあまり読まないようにはしているのだけれど。


マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』読了。かなしい小説だった。「スペイン内戦に翻弄される女性の至上の愛の物語」とか、惹句的に語るとよいのだろうけれども、わたしは非常に単純に、エンタメのように読んだという不届き者である。確かに最後ヒロインはシンプルな幸せを得るが、自分にはほとんどハッピーエンドとは思えない。自分はエンタメはハッピーエンドでないといけないという、三島由紀夫と同じ考え方の持ち主なので、つらい小説だった。もちろん、本書をエンタメと見做すのはわかっていない証拠であろう。ごめんなさい。

ダイヤモンド広場 (岩波文庫)

ダイヤモンド広場 (岩波文庫)

惹句によると、本書は「現代カタルーニャ文学の至宝」なのだそうである。

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』

晴。涼しい。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのディヴェルティメント第十一番 K.251 で、演奏はオルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■シュニトケの弦楽三重奏曲で、演奏はトリオ・リリコ(NMLCD)。トリオ・リリコ、なかなかだな。■バッハの「ゴルトベルク変奏曲」 BWV988 で、ピアノはリリア・ボヤディエヴァNML)。凡庸だけれども、つい聴いてしまった。まあ悪くないのだろうけれどな。しかし、冴えた演奏しか聴かないというのもナニな気がする。

J.S. Bach: Goldberg Variations, BWV 988

J.S. Bach: Goldberg Variations, BWV 988

  • 発売日: 2019/09/06
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
昼寝。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー410円。『敗北を抱きしめて』の下巻に入る。天皇制の話。わたしはこれまでの知見から昭和天皇に戦争責任はふつうにあると思っているが、まあ素人の印象だ。そもそもこれは学問的に決着がつく問題なのか、わたしは知らない。ただ、昭和天皇を戦争責任をもって処刑し、天皇制をそこで終わらせるべきだったかについては、あまり考えたことがない。わたしは現上皇に関しては悪印象をもっていないが、そして現天皇についてはほとんど印象をもっていないが、やはり天皇制は廃止すべきなのではないかと漠然と思っている。それはともかく、わたしは昭和天皇についてははっきりと悪印象に近い感じをもっている。この天皇は優秀であったが、かなり自分勝手でトボけた人物で、まあ食えないというか、強い言葉でいえばかなりの「ウソつき」だったことを確信している。本書を読んでも、その印象は微塵も変わることがない。昭和天皇は「国民の統合の象徴」どころか、敗戦後も密かに積極的に政治的に動いた人物であった。「自分は理系なので、戦争責任のような文系的なことはわからない」とか、よく言うよという感じである。もちろん昭和天皇は、戦争責任というのがどういうことか、よく知っていたのである。マッカーサー天皇の戦争責任を問わず、天皇制を存続させて日本の戦後統治に昭和天皇を利用すると考えたことは、昭和天皇に幸いであった。


日没前、ドラッグストアまで散歩。
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アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』再読了。なるほど、前回読んだとき本書の感想が書けなかったのがわかった。今回も書けない。著者と自分は、微妙に合わないのである。それは、著者が正しく、自分がまちがっているから。著者は(わたしのそれのごとき)「諦念」を徹底的に糾弾する。未来は閉ざされていない、希望はあると、わたしとは比較にならない厳しい状況下で喝破する。わたしの頭でっかちな、お気楽な生活の中で成長した「諦念」など、じつに下らないものだ。でも、わたし個人には、やはりその「諦念」はどうでもよいものではない。わたしだって完全にあきらめてしまったわけではないが、ほぼ無理だと思っているのも確かだ。ああ、こんな個人的などうでもいいことを書いてイヤになるよ。

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

しかし思うが、わたしのようなだらしのない人間に受け入れられない解は、決して最終的な勝利を得ることはないのではないか。ふつうの人間のふつうの生活は、英雄的なものではなく、もっとだらしなく下らないものなのだし、それでよいのだとわたしは思っている。

まったく、辛気くさくて気がくさくさする。クソマジメは死すべし。

斎藤慶典を読む。青空を見たことがないのに文献だけで青空を語る人が多いな。ま、わたしごときクソが何をか言わん。

アミン・マアルーフ『世界の混乱』

曇。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二番 op.2-2 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919-1996)の弦楽三重奏曲 op.48 で、演奏はトリオ・リリコ(NML)。トリオ・リリコってのはなかなかよい感じだな。

String Trios

String Trios

■ペンデレツキの弦楽三重奏曲で、演奏はトリオ・リリコ(NML)。


昼から県図書館。肉屋。スーパー。

夕方、一時間以上散歩。
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アミン・マアルーフ『世界の混乱』読了。読み終えてどう感想を書いたらよいかわからない。著者の本は本書以外に『アイデンティティが人を殺す』を読んでいるようだが、それもどう感想を書いたらよいかわからなかったようで、ブログには読了の事実しか書いていない。おそらくそれに倣った方が賢明であろうが、正直言ってわたしは『アイデンティティが人を殺す』の感想が書いてなかったのを残念に思っている。ので、少しでも何か書けるかやってみる。
 著者はレバノン生まれのキリスト教徒というマイノリティの出身で、祖国の内乱のためにパリに移住し、現在ではフランス語で執筆活動をしているようである。ちくま学芸文庫には上記二冊の他、『アラブが見た十字軍』(未読)が収められている。さて、本書を何と説明したものか。とりあえずわたしは本書から、現在のアラブ人から見た世界観を啓蒙された。しかし本書はそれに留まるものではない。わたしはまた本書から、現在の世界がいかに「絶望的な」状況にあるか、納得させられざるを得なかった。こんなことをわたしが書いても絶対に他人に伝わらないと思うが、現在人類に突きつけられている危機は、わたしにはほぼ回避不能のように感じてしまう。わたしが本書に驚かされたのは、著者がまったくあきらめていないこと、解決策は見つからないにもかかわらず、それでも可能なことを深く考え抜くことをやめないその姿勢である。いや、何という説得力のないわたしの言葉であるか。わたしが書くとたんなる虚仮威しのようにしか響かない。しかし、本書はそんなつまらないものではない。わたしはここまで深く考え抜いている人間を、現在他にほとんど知らないのである。何かのまちがいでもよいから、著者のメッセージが少しでも多くの人に届くとよいと思っている。
 それにしても著者は、嵐を避けて閉じこもることは多くの場合賢明であるけれども、終末が近いいまはそれではダメだという。行動しなければと。行動しない人であるわたしは、どうも恥ずかしい気持ちだ。普段なら無視するところであるが、これほどまでに誠実な著者ゆえ、わたしは困る。他人にはどうでもいいことだが。とりあえず、『アイデンティティが人を殺す』を再読してみるか、迷っている。

世界の混乱 (ちくま学芸文庫)

世界の混乱 (ちくま学芸文庫)

それにしても、いまだ極東は「現場」から遠いのだな。我々の危機感のなさは、それも大きな要因だと認めざるを得ない。それでいまのところ済んでいる我々の「幸運」。


上でわたしはつい「現在人類に突きつけられている危機」と書いてしまったが、ではそれは具体的には正確に言って何のことか? わたしはたんに漠然とありもしない不安を煽っているだけなのか? いや、それは自分の中で明確化されていないだけで、確かに何かあると思う。例えばそれは、抽象的な言い方になるが、あるいはコミュニティ同士(あるいは集団間)の共感不可能性とでもいえるだろうか。大きな規模では、キリスト教徒とイスラム教徒間の共感不可能性。欧米人とアラブ人の間の共感不可能性。ある国の国民と別の国の国民の間の共感不可能性。国民と移民間の共感不可能性。エスタブリッシュと大衆の間の共感不可能性。日本でだと、ネトウヨサヨク・リベラルとの間の共感不可能性。まあそんな感じだ。それらはまたすべて、インターネットが共感不可能性を強化する構造になっている。対話が不可能になっているのだ。まだ罵倒し合うだけならよい、世界のホットな場所では、現実の血まで流される事態になっている。わたしの念頭にあるのは、そんなところだ。我々凡人は怒りと固執を解消することができない。わたしは、それらの問題を解決するのはほとんど不可能だと思っているが、アミン・マアルーフはそうではないのである。

ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(上)』

晴。

午前中ごろごろ。

昼からもごろごろ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー399円。図書館から借りてきた、ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて(上)』読了。第三部を読んだ。いま脳みそ絶賛ぶっ壊れ中なので面倒なことが書けないが、さて本書は日本人の書きにくい「日本人の恥」を書いているなと思っていたら、アメリカ人の書きにくい筈の「アメリカ人の恥」を(たぶん)正確に大量に書いているので驚いてしまった。日本を「改革」しようとした GHQ の連中は、マッカーサー以下日本の実状にじつに無知な輩なのである。そして、占領軍兵士たちの多大なる人種的偏見。「日本の民主化」というのは、じつに占領軍の無知と蛮勇の賜物であったとすら言えよう。それはほとんど偶然の達成なのであって、例えばいまわたしはアミン・マアルーフの『世界の混乱』を読んでいるが、現在の欧米諸国は、イスラム教国家の「民主化」などじつはまるで信じていないのである。それにしても、わたしは自分が「敗戦後日本」の実状をあまりに知らないことに気づきつつある。しかし、少なくとも我々の世代以降、この無知はおそらくわたしに限ったことではないにちがいない。ま、人のことはいいか。

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

しかし、「あなたの子供を産みたい」とマッカーサーに手紙を書き送った日本の女性が多数いたというのは、日本人が敗戦を性的に受け取っていたことの証でないとしたら何なのだろう。日本は敗戦でアメリカに強姦されたと言った岸田秀を、ちょっと思い出させる。かかる心性は、いまはどうなったのか知ら。さても、いまの日本人の対米従属、アメリカの属国としての日本は、ますますその度合いを強めているわけであるが。いや、これは既に紋切り型の意見ですかね。


無謬な人間などまずいない筈なのに、多くの人が自分で自分のことを無謬視するのがコワい。わたしなどだと、ブログの過去記事を探せば誤りなどいくらでも見つかるだろう。しかし、自分の誤りを認めて真実を受け入れるのはなかなか人間にはむずかしいのだよね。自分も、いざというときそれができるだろうか。ネット時代というのはむずかしいな。


アミン・マアルーフを読む。ナセルがそれほどまでにアラブ世界の希望を一身に集めていた存在だったというのは知らなかった。誇り高きアラブ人が欧米人に感じざるを得なかった屈辱感を、ナセルは晴らしてくれるように思われたというのだ。実際、エジプトとシリアはひとつの国になるところまでいったし、短期間ではあるがイラクとヨルダンまでそこに参加するところだった。しかし欧米諸国がそれを許す筈がなかった。最終的にナセルは多くを失うが、それ以来ナセルの代わりになるような人物は出なかった。以降ナセルはアラブ世界の指導者の意識せざるを得ない存在になっているらしい。おそらくそれはいまでも。

そう、アラブ人たちの屈辱感。我々はそれを感じることができるのだろうか? また、欧米人はその屈辱感をわかっているのだろうか。いや、わかっていて、その上でああいうことをやってきたし、いまでもやっているのだろうな。