池内紀『消えた国 追われた人々』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十二番 K.589 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■ショパンマズルカ op.41(全四曲)で、ピアノはアントニオ・バルボーザ(NMLCD)。


ネットで吉本さんに関する素人の書き物は非常に多い。そして、自分ごときがいうのは何であるが、そのほとんどはどうでもよいというか、むしろ積極的に「害をなす」ものである。害をなす? 何に対していかなる「害をなす」というのか? いずれにせよ、吉本さんが感じていた孤独感を深めるようなものしかないというべきであろう。誰も、わたしに触ってくれないという孤独…。まさにそれは、吉本さんが亡くなったいまでも続いている。そしてこのような惨状を見て、まともな人の多くは吉本さんに触れないのをよしとするのである。わたしは、その気持ちはよくわかる。いまでも、逆説的にいえば、吉本さんは「まったく読まれていない」。かつてあれほど読まれたし、いまでも少なからず読まれているにもかかわらず。さみしいことである。

自分のことは棚に上げて語ってしまったが、これに関してわたしも大したことはない。ただ、あまり下らぬことはいわぬようにしているつもりだ。それだけ。

しかしわたしは思うが、吉本さんは「大衆」をして、自分の幸福を望む寡黙な人々というように捉えておられたのではないだろうか。インターネットが明らかにしたところでは、「大衆」とは他人の不幸を望む、やかましい人々であるというのが事実ではあるまいか。それはもとからそうだったのか、ネットがそうしたのか。さて、わたしもまた「大衆」のひとりであるが、じつはどうもよくわからないのである。インターネットによって可視化された部分がそうなのであるというのが正解なのだろうか。

珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、池内紀『消えた国 追われた人々』読了。副題「東プロシアの旅」。意外といっては叱られるかも知れないが、池内さんにしてはずっしりと重い主題の旅行記だった。「東プロイセン」はナチス・ドイツの敗北と共に歴史から消えた国家(の一部)である。本書の通奏低音は「戦争」であろう。「東プロイセン」の崩壊にあたって、1000万人を超える人々が故郷を失った。哲学者カントの街・ケーニヒスベルクから船で脱出しようと多くの人々が乗り込んだグストロフ号(豪華客船であった)は、ソ連の潜水艦による魚雷攻撃により沈没、亡くなった人々の総数は 9000人ともいわれ、これはタイタニック号の沈没を遥かに上回る史上最大の海難事件である。しかし、戦後ドイツは「加害者」と理解されていたから、そのことはタブーになっていた。このエピソードは本書の中で繰り返し出てくる。そのカントの街(700年の歴史をもつ古都であり、美しい大都市だった)は連合国軍による空襲で瓦礫となって消滅し、いまでは往時を偲ばせるものはほとんど残っていない。本書の中でわずかに輝いて見えるのは、誰もがきらめくように美しいポーランド、ロシア、ラトヴィアの女の子たちだけであろうか。つい、池内おじいさんは目を細めて眺めているのだ。どうして彼女らが大人になると、これまたことごとく…になってしまうのかと訝しみながら。花の季節は、短いのである。

消えた国 追われた人々――東プロシアの旅

消えた国 追われた人々――東プロシアの旅

 

ドラッグストアまで散歩。
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早寝。

真弓常忠『大嘗祭』

曇。

NML で音楽を聴く。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第三番 op.108 で、ヴァイオリンはジェラール・プーレ、ピアノはイタマール・ゴランNMLCD)。■シューベルトの「さすらい人が月に寄せて」 D870、「ヴィルデマンの丘をこえて」 D884、「孤独な男」 D800、「解消」 D807、「十字軍」 D932、「墓堀り人の郷愁」 D842、「夜咲きすみれ(花大根)」 D752、「白鳥の歌」 D957 ~ 第三曲「春の憧れ」、「秘めごと」 D719 で、バリトンはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ピアノはジェラルド・ムーアNML)。

シューベルト:歌曲集第1集

シューベルト:歌曲集第1集

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十七番 op.31-2 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番

 
散髪。さっぱりした。

昼から網戸を張り替えた。結構大変だったが、わりとうまくいって満足。

夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック プレーン+ブレンドコーヒー410円。池内さんの東プロイセン紀行の続きを読む。調子がいまひとつなので感想は書けないが、おもしろい。知らないことばかりだ。
建物から外へ出たら、知らぬ間ににわか雨が降っていたようである。水たまりが至るところに出来ていた。

シューベルトの「さすらい人」幻想曲 D760 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。この録音を聴くのは三度目で、どちらかというと一期一会的に聴いている NML では三度目というのは他にまずないのではないかと思う。我々の時代の「さすらい人」幻想曲だ。■アンリ・デュティユーのピアノ・ソナタで、ピアノはクレール=マリー・ル・ゲ(NML)。ル・ゲというピアニストはまったく知らないが、CD は既にかなり出ている。すごくパワフルで奥まで射程のある、目の覚めるような演奏。デュティユーの曲もよいしね。

Dutilleux: Pno Sonata / Bartok: Pno Sonata

Dutilleux: Pno Sonata / Bartok: Pno Sonata

NML でも既にたくさん聴けるな。いや、オレってホントに何にも知らんね。

真弓常忠『大嘗祭』読了。「嘗」(ナメ)というのは「食べること」というのだが、まあ「舐」(ナメ)と同じなのでしょうなあ。で、何か(穀物?)をペロリと食べると天照大神アマテラスオオミカミ)のパワーを受けると。そのあとふとん(真床襲衾=マドコオフスマ)の中に潜って、ニニギノミコト(穀童=子供の穀物霊?)になるとしか読めないのだが、謎ですね。何だか非常にわかりにくい書き方がされている。わたしの読解力不足である。

大嘗祭 (ちくま学芸文庫)

大嘗祭 (ちくま学芸文庫)

堀越豊裕『日航機123便墜落 最後の証言』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十一番 K.575 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。この曲も含む三曲のいわゆる「プロシャ王セット」は注文されて書かれたもので、結局途中で挫折(?)しているという、モーツァルトは明らかに乗り気でなかった。そのためか自分もこれまでいまひとつよくわからなかったのだが、今回聴いてみてさすがにモーツァルトだなと思い直した。モーツァルトははっきりと筆を抑えて書いているが、シンプルでそれなりによい。それにしても、モーツァルトが書きたい音楽を書くほど人気が落ちていくので、自分の思いどおりに書くかどうかがモーツァルトの悩みになっていくとはむずかしい話である。まだモーツァルトは世間では「芸術家」と認知されていなく、というかそういう存在はまだなくて「職人」しかいなかったから、そうなったのだ。そして、モーツァルトの直後に来たベートーヴェンあたりが、そこいらのことを大きく変えていくのである。いまや、「芸術家」となるといかに「自分らしく」ふるまうかということが問題になっているわけだが。自分なんてある意味では錯覚なのだけれどね、これもまた陳腐な真実であるけれども。■シェーンベルク交響詩ペレアスとメリザンド」 op.5 で、指揮はジュゼッペ・シノーポリフィルハーモニア管弦楽団NMLCD)。フィルハーモニア管時代のシノーポリはすごいな。まあその後だってすごいのだけれど。■フランクの「オルガンのための六つの小品」 ~ No.1 Fantaisie in C Major で、オルガンはジャン・ラングレー(NML)。

César Franck à Sainte-Clotilde

César Franck à Sainte-Clotilde

  • 発売日: 2010/03/15
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
精神現象学』は「自分」というものが「絶対精神」にまで高められていく過程を記述した、吐き気がするほどいやらしい形而上学である。まあ、ヘーゲルが気持ち悪いというよりは、その哲学が気持ち悪い気がするが(極東のバカの妄言です。笑)。


政治的立場を明らかにするとか下らないといえば下らないが、マジメなことばかりしているとバカになるので下らぬことを書くと、わたしは相変わらず消費増税には反対である。それで景気はまちがいなく悪くなるし、そもそも逆進性の強い消費税に対しわたしのような貧乏人が反対するのは何の不思議もない。それに、過去の消費税分はそっくりそのまま法人税減税に使われているのが事実なので、将来の世代のためとかおためごかしをいう財務省のウソにはさすがにお前うんこだろといいたくなる。しかし野党、特に旧民主党議員はいまでも何の反省もないので、自分たちの過去の経済政策はまちがっていましたとはっきり言わないと支持はないのではないか。さすがに国民は皆んな知っていると思いますよ、君たちのやった犯罪的行為を。

なお、法人税を減税しないと日本から企業が逃げていくという論があるが、これはほとんどウソである。租税回避ということはそんなに簡単にできるものではないので、例えば登記を外国へ移すくらいのことでは不可能である。そもそもそれが簡単ならばどの企業でもやっているに決っているではないか。貧乏人のわたしは、法人税増税累進課税の強化以外、道はないと思っている。もっとも、これができる政治家はひとりもおるまいが。

それから、いまの日本企業に欠けているのは、もうかったら給料をしっかり上げる、これだと思う。そうすれば、皆んな消費に回す分が増え、それで景気がよくなり、自分たちの会社の製品もさらに売れるようになる。よいサイクルで日本も元気になる。なに、単純すぎる? そんな簡単なものではない? ちがうのである。事実はこれほどまでに簡単なものなのである。日本人のお好きな、外国の現実を調べてご覧なさいといいたくなる。いま日本の企業のやっていることは、非正規労働を増やし、できるだけ給料を出さないということだ。これで、逆のサイクルが回る。まわるーまーわるよ。ま、日本人はそうしたければ好きにすればいいのだけれどね。バカなオレは知らんけど。そういや、所得倍増計画とかかつてあったな。

しかし、むなしいな。こんなことを書いて何だという気がする。所詮ムダといえばムダ。

好景気になれば給料は勝手に上がるとリフレ派はかつて言っていたが、これはちょっと見通しが甘かったようだ(要出典。特に諸外国との対比、非正規労働の「常態化」)。リフレ政策というのは「期待」を変えるものであるが、給料が上がらなければ(もちろん上がらなかったわけではないが)「期待」はいずれはしゅんと萎まざるを得ない。日本企業のしみったれぶりがわかっていなかったということであろうな。そこはわたしもまちがっていたと思う。

以上、素人の妄言。


オレもどんどん老害化していくね。

イオンモール未来屋書店で新書本を探す。上でエラソーにも「非正規労働」とか書いたので、「非正規労働」とか「非正規雇用」という文字が題名に付いている新書本を探してみたけれど、なかった。結構一生懸命探したのだが。たぶんそういう本はあるけれど、買われちゃってないのかなと思う。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー378円。池内紀さんの「東プロシア旅行記を読む。僕は池内さんはさほど好きというわけではないのだが、文章が上手いのでこれまで結構読んできたことになる。その中で特におもしろかったのが哲学者カントの伝記で、これは忘れがたい本だ。カントというと謹厳実直で、いつもきまって正確な時間に散歩をするので、近所の農夫たちが時計代わりにしたというエピソードが超有名であるが、池内さんの活写するところではカントはじつは快活な社交家で、カントとの交際はとても楽しいものであったというのだった。そしてケーニヒスベルクの街からほとんど外へ出なかったにもかかわらず、その大きな港町・商業都市で暮らしながら世界中の世俗的情報に通じていたというので、まさに西洋最大の哲学者のひとりとしてふさわしく、感動させられたものである。そのカントの街は、じつは「東プロイセン」にあったのだが、東プロイセンというのはいまはない。現在その大部分はポーランド領にあり、東プロイセン(つまりドイツ)であったときはほぼポーランド領の中の飛び地であった。そして、ヒトラー第三帝国の崩壊と共に、ポーランドなど三カ国の領土に編入されられ、住民は退去させられたのであった。本書はまだ三分の一程度しか読んでいないが、予想どおり悲しい本である。まあわたしはカントのことがあって少しかつての「東プロイセン」のドイツ人に思い入れがあってそうなるので、ロシア人やポーランドからしたらまたちがうことであろう。いずれにせよ、戦争というものは悲しい。悲惨な目にあうのはいつも民衆だ。

カルコスにも寄って、「非正規労働」「非正規雇用」についてのモノグラフを探すも、ない。新書本だけでなく労働問題の棚も探したが、そもそも労働問題の本というと基本的に法律書が主である。帰宅してからアマゾンで検索してみるも、そのような語を含む新書はないようだし、単行本でもきわめて少ないのが意外だった。「非正規雇用」の現状をお勉強しようという一般人は、日本に存在しないわけだろうか。よくわからないところである。これだけバカみたいにたくさん新書本が氾濫しているのにな。

今日買ってきた、堀越豊裕『日航123便墜落 最後の証言』読了。ほぼ一年前に青山透子『日航123便 墜落の新事実』(参照)という本を読んだ。一般に「陰謀論」として一笑に付されている本であるが、わたしは一読して強い説得力を感じた。それは、この本が「実証」の本だからで、ファクトを集めて考察するという姿勢に貫かれた本である。じつは、自分はこの本がそれほど論争になっているとは知らなかったのであるが、どうやらそういうことになっているようで、本書もこの青山氏の本を否定する目的で書かれている。わたしは青山氏の姿勢に感銘を受けたので完全にそちらにバイアスがかかっていることは最初に述べておくが、本書は奇妙な対応をしている。青山氏の本は既に書いたように「論証」であり、それを否定するのは同じく「論証」でなければならない。つまり、青山氏のもっているファクトと、そこから導かれるロジックを同等の過程で否定すべきであるのに、本書はそれを「取材」であっさりと否定しているのだ。わたしは、これでは青山氏の書物を否定したことにならないと思う。じつは、わたしは本書冒頭の「書いてもらっては困るが、日航ジャンボ機墜落事故の原因が修理ミスだとニューヨーク・タイムズ紙にリークしたのは私だよ」(p.10)というあるアメリカ人の「驚きの告白」からして、むしろ本書に「陰謀」を読み取ってしまうが、まあそれはわたしの強いバイアスがなせる帰結かも知れない。本書帯の惹句には「論争に終止符を打つ決定的ドキュメント」とあるが、余計闇が深くなったように邪推してしまう。笑。ま、わたしがまちがっているなどというのは大したことではないが、何か嫌なものを見た感じがしてしようがない。

 
さて、夕ごはんも食べ終わったので(笑)、本書の青山氏の本に対する態度について、少しだけ補足しておきたい。遺体の炭化は航空燃料の燃焼によるものではないという青山氏による説明を、本書はきちんと受け止めていない。著者の反論らしきもので「大量の燃料を積んだ旅客機が山に激突して、炎上すれば、これぐらい炭化しても不思議でない」というのが、反論になっていない(わたしはこれだけで著者を信用することがかなりむずかしくなる)のは著者もわかっている筈である。ケロシンではそうならない、そもそもそんな風にならないために航空燃料にはケロシンが使われているのだというのが青山氏の主張だからである。これ以外では、著者のやっていることは「取材」にすぎない*1。青山本を否定したければ、「目撃証言は当てにならない」*2とか、「元日航機長が反論している」とか、そういうことは無意味である。
 まあしかし、自分の書いていることはバイアスに満ちているし、真実かどうかわからない。ただ不思議に思うのは、なぜ本書が書かれなければならなかったかである。青山氏の著書を否定する目的なのは明らかなのに、本書第四章までその名前が出されず、それも一見青山本に対して非常に謙虚であるように見せかけながら*3、論証態度はまったく謙虚でない、というか「論証」ではなく「取材」しかしていない。青山本を否定したければ、冒頭ではっきりと問題点を指摘し、ファクトとロジックで堂々と論破すればよい。それに、なぜ第五章で「ハドソン川の奇跡」の機長にインタヴューなどしているのか。ほとんど青山本と関係ないではないか。
 つい力んでしまった。繰り返すけれど、自分はなぜ本書が書かれねばならなかったのか、不思議な気がする。まあ、不思議な気がするのは自分だけなのかも知れないが。

追記。青山本を一蹴した元日航機長の本の論拠は、「フライトレコーダーは捏造できない」*4というものであるそうだ。青山本が正しいとすればフライトレコーダーの「結果」は捏造可能だし、逆に「結果」の捏造が不可能ならば青山本がまちがっていることは確定である。その論証は簡単なことだ、どのような研究者に対しても、フライトレコーダー現物の調査が無条件に許可されればよい。わたしはそれは行われるべきだと確信するし、それで自分がまちがっていればその事実を受け入れよう。

*1:そのあとで、センターウィングタンクの燃料の「取材」の話が出てくるが、これが真実なら最初からこれを書いておけばよいのである。それも、ホエター氏の「絶対の自信がある」などという情緒的な情報を付け加えずに。そもそも本書には情緒的な情報やいかにも見てきたように再構成された記述が多すぎる。

*2:青山本を参照すればわかるが、日航機と一緒に飛んでいる二機のファントムを見たのはひとりではない。また、日航機墜落現場に翌朝入ろうとした人たちが、その前に現場に入っていたとしか思えない自衛隊員たちが下山してくるのを見たのもひとりではない。また、日航機行方不明の NHK の特番(じつはわたしもこれを見ていた)の放送時に墜落現場を知っていた地元の人たちが、どれだけ NHK に連絡しても放送されなかった、その体験をした人もひとりではない。また、最初に墜落現場に入ろうとした米軍のヘリが着地寸前に引き返したのも、生存者、米軍パイロット含め複数証言ある。著者はこれらすべてを、ここでは下らぬ言い訳をしながら、取材すらせずに無視している。

*3:著者はいう。「私の考えとは違う。米国と日本で積み重ねてきた取材を基に違うと考えるのだが、それは私の考えであり、青山には別の考えがある。/人間は同じものを見ていても、どの角度からながめるかによって受け止め方に違いが出ることもある。」(p.183)一見謙虚そうだが、これは無用の言である。この場合、真実はひとつしかない。著者が正しければ、青山氏はまちがっているのだ。

*4:なお、ボイスレコーダーの記録の捏造(あるいは改竄)はわたしはかなり確からしいと考える。ファントムが日航機を追尾していたことは著者も認めざるを得なくなっているが、公表された日航機のボイスレコーダーの交信記録には、当然記録されているべき日航機とファントムとの間の会話の記録が含まれていない。当然ながら、ボイスレコーダー現物へのあらゆる研究者のアクセスが許可されるべきである。

こともなし

雨。昧爽起床。
昨晩『精神現象学』を読んで寝たせいか、悪夢を見る。目覚めてまだ恐怖が残っていた。
そういえばヘーゲル肖像画ってひどい顔だったのを思い出す。

モーツァルト弦楽四重奏曲第二十番 K.499 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■ハイドン交響曲第八十五番 Hob.I:85 で、指揮はエルネスト・アンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団NMLCD)。■ドビュッシーの「ボヘミア舞曲」、「スティリー風タランテッラ」、「二つのアラベスク」、「夢想」、「バラード」で、ピアノはブルーノ・カニーノ(NML)。

シューベルトのピアノ・ソナタ第二十一番 D960 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NMLCD)。あまりにもピュアなピアニストの精神で、わたしのような心の濁った者にはちょっと退屈に感じるくらいである。しかしそれはわたしが悪いので、こんなに心のきれいなピアニストは滅多にいない。すばらしいというべきだろう。ところで、わたしはこの曲の終楽章が好きではなく、それまでの三楽章の感興が一気に削がれる感じがする。駄作とまではいわないが、前三楽章とはだいぶちがった音楽で、違和感を感じずにはいない。このピアニストでもそれは変わらなかった。いっそ、終楽章は演奏しないでもらいたいくらいである。


ずっとぼーっとしていた。
眠い。

メシアンの「天と地の歌」で、ソプラノは奈良ゆみ、ピアノはジェイ・ゴットリーブ(NMLCD)。■武満徹の「カトレーン」で、演奏はタッシ、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NML)。本当にすばらしい。武満を聴いていると、このわたしの小さな部屋が宇宙になる。武満の音楽は世界そのものに繋がっている。これこそ唯物論的な音楽ともいえるだろう。

武満徹:カトレーン

武満徹:カトレーン

篠田一士『創造の現場から 文芸時評1979~1986』

日曜日。昧爽起床。

NML で音楽を聴く。■メシアンの「鳥のカタログ」 ~ No.9. La Bouscarle, No.6. L'Alouette-lulu で、ピアノはピエール=ロラン・エマール(NMLCD)。

二度寝してラクになったし気持ちよかった。昔、二度寝が好きでわざわざ目覚ましを朝四時くらいにかけて起きて二度寝するという生徒がいたが。
雨。

モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■シェーンベルクの「浄められた夜」 op.4 で、指揮はジュゼッペ・シノーポリフィルハーモニア管弦楽団NML)。シノーポリの巨大かつ精緻な演奏でこの曲を聴いて、いろいろなことを思った。まさに表現主義の代表作のひとつであり、ここにはすべて効果しかない。これは真っ直ぐに現在に繋がるものであり、いまや音楽も映画もいったんバラバラにされ、解体して組み直されただけであり、それは創造ではないと坂本龍一さんは仰ったが、シェーンベルクがここでやっていることはまさしくその濫觴であろう。ここには巨大な計算があるだけで、出口がどこにもないのだ。たぶん、リヒャルト・シュトラウスですらここまできていないのではないか。まぎれもなく後期ロマン派の崩壊点であり、シェーンベルクがここから無調へ進んでいったのも当然のことに思われる。

Schoenberg;Pelleas&Melisand

Schoenberg;Pelleas&Melisand

シューベルトの「楽興の時」 D780 で、ピアノはファブリツィオ・シオヴェッタ(NML)。モーツァルトソナタを聴いて感心したので、これも聴いてみた。正直言ってわたしの汚れた精神ではピアニストの領域に入り込むのに多少時間がかかるのであるが、いったんこの世界に慣れてしまうといまこれだけのシューベルト(そしてモーツァルト)を聴かせるのはとてもむずかしいことを思う。静謐で誇張のまったくない音楽だ。モーツァルトソナタ全集を期待したいし、シューベルトは例えば即興曲集などどうであろうか。一見地味だが、わたしの密かに期待するところのピアニストである。

なお、シオヴェッタは NML ではまだあまり聴けないが、CD や MP3 Download ではさらにシューマンハイドンが聴けるようだ。NML でも待っております。■アルベニスの「イベリア」第四巻で、ピアノはクロード・エルフェ(NMLCD)。アルベニスってほとんど聴いたことがないけれど、このクロード・エルフェの「イベリア」はよかった。何でも青柳いづみこさんによると技巧的に至難の曲だそうで、だから録音が少ないのかも知れない。ラローチャの録音などが有名なのかな。何にせよ、聴き応えのある曲集である。


珈琲工房ひぐち北一色店。ひさしぶりだが、さすがにここのコーヒーはおいしい。最近はお客さんも多いようだ。当然だと思う。
篠田一士さんの文芸時評集の続きを読む。自分を鍛える鑢として読むのがいちばんよいようだ。いまの基準からいえば「古くさい」が、そうしたところで文学のすごい読書量である。ちょっとこんな人はいまはいないだろう。教えられることばかりである。それにしても、篠田さんを読んだ人はすぐ気づく筈であるが、この「私小説(わたくししょうせつ)全否定」の姿勢は苛烈であるね。いまの潮流はむしろ私小説熱烈肯定というところで、マイナーだった私小説家が文庫本で次々再刊行されるという時代だから(まあそれも一段落はしたようだが)、結局篠田さんの奮闘も虚しかったのかも知れない。もっとも、わたしは私小説はあまり読んだことがないので、よく知らないのですけれども。
 
散歩。何となくスナップした写真。
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猫を四匹も見た。


図書館から借りてきた、篠田一士『創造の現場から 文芸時評1979~1986』読了。感想はこれまでに書いているので省略。本書にきちんと索引がついているのはさすがである。なお、アマゾンには登録されていないようだ。 

真弓常忠を読む。

多和田葉子『変身のためのオピウム』

雨。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十八番 K.464 で、演奏はクレンケ四重奏団(NMLCD)。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはジェラール・プーレ、ピアノはイタマール・ゴランNML)。そういえば今日は雨だな。

Sonates Pour Violon Et Piano

Sonates Pour Violon Et Piano

ジェラール・プーレというヴァイオリニストはとても有名な方なのだな。シェリングの弟子で、「フランスの至宝」とか呼ばれるらしい。知らなかった。なるほど、それで安定感のあるブラームスだったわけだ。音色はちょっと暗めな感じがする。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はドビュッシー四重奏団(NML)。
String Quartets

String Quartets

ぐーぐー寝てばかりいる。見知らぬ女の子の部屋で目が覚める夢を見る。もうそんな齢じゃないのにな。それに、それが大阪と京都の境付近で、しかも海が近いという現実にありえない場所。いったいどうなっておるのだ。

多和田葉子さんの『変身のためのオピウム』という小説を読む。自分の外部にあって、居心地が悪いのがおもしろい。不気味なイメージも頻出する。その外部をひたすら内部へ繰り込もうと勝手に頭脳がはたらくが、それはあるいは「正しくない」読み方かも知れない。差異を差異のままあらしめよ、理解などあやまり、「誤配」こそが生産的だ、そんなことが言われた時代もあったが、さてそれはどうであったか。何にせよそんなことに関係なく、自分の精神は勝手に内部に繰り込み、同化吸収しようとする。まさに凡庸、浅田さん的にいうパラノ的ドライブかも知れない。かつてそれはまちがっているといわれたものだ!


■ニコス・スカルコッタスの「組曲(1924)」、「ピアノ・ソナチネ」で、ピアノはロレンダ・ラモウ(NMLCD)。スカルコッタスというのはなかなかおもしろいな。ギリシア人でいまの基準だと若死にだったが、実(じつ)のある音楽を書いた。

図書館から借りてきた、多和田葉子『変身のためのオピウム』読了。これはわたしだけかも知れないが、読んでいると吐き気のようなものを覚える。決して disるつもりはないが、気持ちが悪いところがある。この居心地の悪さは、著者の大変な美点というべきだろう。純文学は、人を嫌な気持ちにさせるのが傑作というところがあるから。もっとも、オレはちっともそんな気にならないという人もいるだろうな。わたしのナイーブさの発露というところであろうか。

変身のためのオピウム

変身のためのオピウム

 
エリアーデを読む。
早寝。