橋本治『これで古典がよくわかる』

晴。

暑い。テレビではお節介にも「熱中症対策を」ばかりである。
昼から二時間ほど寝る。さすがにエアコンを入れ始めた。

NML で音楽を聴く。■メシアンの「三つのメロディ」で、ソプラノは奈良ゆみ、ピアノはジェイ・ゴットリーブ(NML)。

オリヴィエ・メシアン歌曲全集

オリヴィエ・メシアン歌曲全集

  • アーティスト:奈良ゆみ
  • 出版社/メーカー: ALM RECORDS
  • 発売日: 2005/11/07
  • メディア: CD
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十六番 op.81a で、ピアノは園田高弘NMLCD)。なぜこれほどのピアニストが聴かれないのか? わけがわからない。それとも私がおかしいのか? ■シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNMLCD)。■シベリウスのヴァイオリン協奏曲 op.47 で、ヴァイオリンはサルヴァトーレ・アッカルド、指揮はコリン・デイヴィスロンドン交響楽団NML)。すばらしくも異常な曲。これ以上のヴァイオリン協奏曲はあり得ない。アッカルドのヴァイオリンはじつに見事だが、正直言うと終楽章の前半は少しもの足りなかった。ここは演奏者も聴き手も命を縮めるような音楽である。指揮は悪くないが、アッカルドに比べると多少劣るのは否めない。
SIBELIUS/ VIOLIN CONCERTO

SIBELIUS/ VIOLIN CONCERTO

  • アーティスト:Aalvatore Accardo(vn)
  • 出版社/メーカー: ELOQUENCE
  • 発売日: 2016/09/16
  • メディア: CD
 
ドラッグストアまで散歩。暑くなってきたのでそのうち散歩できなくなるな。西日がきびしい。
20190525180722
 

図書館から借りてきた、橋本治『これで古典がよくわかる』読了。本書はふつうの高校生なら充分読めるわかりやすい本であるが、わたしの読後感は複雑である。とにかく、日本の古典の中核は和歌であり、その和歌がわたしは苦手だ。本書を読んで少し和歌への苦手意識が減って、うれしい気持ちである。わたしは学生のときに『古今和歌集』を読んで、これはわかりやすくて感動すらした。しかし、『古今和歌集』というのはあまりに日本文化、日本的美意識の骨格でありすぎて、もはや陳腐化してしまっているというのがよくいわれることなのですね。もちろんわたしは『古今和歌集』ですら暗記していない。それだと、あの絶賛される『新古今和歌集』などは到底読めないわけです。橋本さんの『新古今』の読み方はまったく目からウロコが落ちるようなものだった。定家「春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空」。これを訳すと「春の夜の夢の浮橋がとだえて、山の峰にわかれる横雲の空だ」。訳しようがない(笑)。ホントなんなんだ。じつはこれ、「春の夜に眠りから覚めて空を見たら、山の向こうへ細い雲が流れて行った」ということなのだそうです(何それ)。あとは橋本さんの超わかりやすい解説を読んで頂きたいが、わたしは永遠に知識人にはなれないと思った(まあなるつもりも能力も知識もないが)。ほとんど、よけいに古典がきらいになったようなものである。
 橋本さんは本書冒頭で、いまの日本人は己のオリジン(=起源)を知らないから、国際社会でのオリジナリティがないとはっきり仰っている(p.23-24)。日本の古典、つまり自分たちの足元をまったく知らない、と。わたしの体たらくは上に書いたが、たぶんいまの日本の若くて優秀、えらい学者たちの少なからずが、わたしのごとき浅はかな人間以上に日本の古典を知らない可能性がある。いや、そんな筈はないと思いたいところであるが、どうなのでしょう。まあそれはよい。わたしは、自分自身に絶望している。反省してもう少しお勉強したいと思う。まさにわたしは日本の恥であろう。

これで古典がよくわかる (ちくま文庫)

これで古典がよくわかる (ちくま文庫)

とりあえず、ふつうの高校生のつもりで、橋本さんのわかりやすい古典関連本を読んでみたい。さすがに窯変源氏とか双調平家とかはたぶんまだ無理っぽいが。

橋本さんは、古典に立ち表れてくる人間は、特別なそれではなくて、現代人の我々と何もかわらない人間なのだということを忘れてはいけないと仰っている。恋もするし、さみしくなったりするし、人が死ねば悲しい。そういうことは同じなのだから、自分に引き付けて読めば基本的によいのだと。それはそう。それは、例えばマンガで源氏物語をリライトしたところで、ふつうに読めるということでしょう(まあ大の男がメソメソ泣きすぎるが、それはわたしのようなセンチメンタルな人間のいうことではないか)。
 しかし、それに反することをいうようだが、いまは人間が大きく変ってしまっている時代だともいえるけれども。子供を作るのはコスパが悪いし大きなリスクだというような思考法が、当り前のような時代になっている。おお、何ということだろうか。そんな人間は、ほんの一部だと思いたいところである。


大西巨人を読む。大西さんを語るというのはわたしの小ささがわかってしまって恥ずかしいので、なかなかし得ないことである。むずかしいなあと思いながら少しづつ読んでいるのであるが、この硬くて論理的な鎧のような文章の底に、笑いも含むみずみずしい樹液の存在を知るべきであると思ったり。単純に言って、わたしの心は動くのだ。しかし、こんな幼稚なことを書いてよいものだろうか。まあ、わたしの未熟が知れるなど大したことではないか。