梅林宏道『在日米軍』

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトピアノ三重奏曲第一番 K.496 で、ヴァイオリンはオーギュスタン・デュメイ、チェロはジャン・ワン、ピアノはマリア・ジョアン・ピリスNMLCD)。■リヒャルト・シュトラウスの管楽器のためのソナチネ第一番「傷病兵の仕事場より」で、指揮はアンドレ・プレヴィンウィーン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。奇妙な曲だな。リヒャルト・シュトラウスが何がしたいのか、自分にはわかりかねるのだが。しかし、つまらないということでもない。■ショパンポロネーズ第四番 op.40-2 で、ピアノはラザール・ベルマン(NML)。この曲が聴きたかった。

Chopin: Polonaises 1-6 & Piano Sonata No. 3

Chopin: Polonaises 1-6 & Piano Sonata No. 3

  • アーティスト: Emil Gilels & Frédéric Chopin Lazar Berman
  • 出版社/メーカー: Mezhdunarodnaya Kniga Musica
  • 発売日: 1978/01/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
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ショパンポロネーズ第五番 op.44 で、ピアノはラザール・ベルマン(NML)。
 
曇天。寒い。
珈琲工房ひぐち北一色店。梅林宏道を読む。
今日でコーヒーチケットを使い切った。調べてみたら九月の頭に購入したので、四箇月で使い切ったのだとわかる。意外に熱心にかよったな。雰囲気がよいし、何よりコーヒーがおいしいので、本を読むのにちょうどいい。またつぎの一月の頭、チケットの割引販売日に購入するつもりである。

梅林宏道『在日米軍』読了。本書は極めて具体的な事例・情報に満ちた本であるが、自分の考えていたというか、胸の内を去来していたのは、一般的・抽象的にすぎる思いであった。ここで特に本書の感想を書こうとは思わないが、ツイッターなどで喋々されている聞いたふうな「正解」では、現状の冥さに対して何にもならないというのが私の苦い実感である。人間の愚かしさには限りというものがないようで、我々は知らぬ内に人間のクズ状態をどんどん悪化させているというのが残念ながら事実である。別に他人の話ではない。自分は自分の愚かしさと無力を痛感する。ぼちぼちとやれることから、おそらくは無駄であっても試みていくしかない。わたしは特に政治的人間ではなく、実情は怠惰であってもである。

在日米軍 変貌する日米安保体制 (岩波新書)

在日米軍 変貌する日米安保体制 (岩波新書)

結局は、生きるとは何なのかみたいな古くて永遠の難問を意識しない限り、具体的な政治的問題も対処のしようがないのだ。当り前の話なのだが、残念ながらいまではちっとも当り前の話になっていない。それにしても、現在的幼稚性とは…。

とかあんまりマジメばかりでもおかしくなるので、くだらないこともいっぱいしております。昨日はマンガを読んだ。

しかし90年代のラブコメがいまのわたしに読めるかだが…。後期おっさんにはムリなことが多い。「レールガン」も「けものフレンズ」も途中で長期停滞しているしな。「ドラクエ1」も途中でたち消え。ホント、幼稚な文化につきあっていくのもラクではない。
わたしにはくだらない Tumblr がいい感じだったのだが、Tumblr もエロが追放されてしまったしな。そもそも、周縁部にひっそりと「不健全な」ものがあるというのが正しくも健全な文明のあり方だと思うのだが、すみずみまでサニタイズされた安全球体に閉じ込められたいまの子供たちが何ともかわいそうであるし、それこそ不健全だと思うのだが。ま、根底から考え直さないと本当にダメだ。

しかし子供ら、ゲームばっかりやってるな。これは大事実としてこれからの考察の根底のひとつになる、なんていうのは別に常識だけれども。ま、大人もゲームばっかりやってるのですけれどね。もっとセックスでもしろよ、マジで。あ、やってますか、そうですか。エロとゲーっすかね。

なお、コンテンツの選択はそれで現在を理解しようとか、そういうムダな意図はなくてあくまでもテキトーなので悪しからず。どうでもいいのである。わたしはそういうくだらないヤツだ。


ショパンポロネーズ第五番 op.44 で、ピアノはラザール・ベルマン(NML)。また聴いてしまった。■ショスタコーヴィチ交響曲第八番 op.65 で、指揮はアンドリス・ネルソンスボストン交響楽団NMLCD)。ふう。まあ 66分しんどかったのではあるが、しかしねえ、ショスタコーヴィチ交響曲はどこまで本気で書かれているのかわからないから苦手である。室内楽ショスタコーヴィチがその本心だとすると、交響曲はあまりにも公的なジャンルすぎた。ショスタコーヴィチはその音楽を全体主義国家のイデオロギーの中で書いたのであり、常に己の思うがままに作曲できたわけではないことは繰り返し思い出されてよい。ネルソンスによる演奏はアイロニーのまったくない素直なもので、オーケストラはきびきびとよく鳴っているが、第三楽章などはこれをマジメに受け取ってよいのだろうか。どうも、もりあげとけばよいみたいな、陳腐さまで感じる。まあしかし、それは穿ち過ぎというものかも知れない。人気曲なのだから、つべこべいわずにもりあがればよいのかも。

こともなし

晴。霜柱立つ。

昨日 VMware 上で Zorin OS 12.4 Lite を入れてみた。
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きれいな画面ですね。結構気に入ったのでふつうに PC に入れてみるかと思ったり。Zorin OS は意図的に(昔の)Windows っぽい操作性を狙っているらしいが、真似という感じはしない。そんなことをいったら Linux Mint だって Windows っぽいですしね。なお、Zorin OS は Ubuntu 系であるが、デフォルトのブラウザは Chromium。最初の設定のときにコアの数を 2 にしておけば、VMware 上でも結構使える。ネット閲覧も多少重いが、あまりストレスなく使える感じ。しかし 1コアだとたぶんちょっときびしいのではないか。それからシステムの容量を 15GB にしたのだけれど、Ubuntu 系はこれだとメモリに余裕がない。やはり 20GB くらいは欲しい。

しかしホスト PC よりも新しいカーネルが走っているというのは…(笑)。


大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー386円。
ラーメン「天下一品」岐阜薮田店にて昼食。チャーハンセット968円。学生の頃「天下一品」(本店も近くにあった)のラーメンはおいしいと思っていたが、こんなものだったか? 全然大したことがない。むしろ低レヴェル。炒飯もひどい。店内は満員で大混雑していたが。

図書館から借りてきて期限が迫ってきたので、片岡義男『珈琲が呼ぶ』を読み始めたが、とても読めない。理由ははっきりしている。自分が田舎者で、かつダサい田舎者だからだ。まあダサい田舎者がこの本を読んでいけないということはなかろうし、別に愛読したってかまわないのだが、とにかく読めませんでした。ごめんなさい。

珈琲が呼ぶ

珈琲が呼ぶ

ミスドの 270円のコーヒーを愛飲しているようなわたしである。コーヒーに関して何か言えるような資格があるとは思えない。


四明書院という出版社(知らない出版社である)から出ている、吉田秀和さんのアンソロジーを読み始めた。吉田さんの全文業を理解すべく、処女作から最晩年の文章までよりセレクトされた、単行本で 600ページ近いぶ厚い本である。思えば、高校生の頃から、吉田さんの文章をしこたま読み続けてきたものだ。少なくとも全文業の半分、いや自分の思い込みでは八割くらいの膨大な量を読んだと思う。そして自分には、吉田さんは亡くなるまで、同時代の最重要の音楽評論家であり続けた。だからもう、好きとかきらいとかではないのである。
 シューマンについての処女作(1950年発表)は、あまりにもなつかしかった。何もかも覚えていると思った。そんなこんなで、吉田さんのキャリアのごく初期の文章をまずは 100ページくらい読んだが、とにかく文章が立派である。いまの評論家(何評論家でもいいが)で文章が書ける人は寥寥たるもので、若い人ではほぼ皆無といってよいが、吉田さんは批評家というよりも、まずは文章家(この単語が Mozc では一発変換できない)というべきであろうと思った。そもそも吉田さんは、いまの人が知っているのか知らないが、小林秀雄の周辺にいた人、その最後の人で、というか中原中也の友達だったのだ。若い頃から、濃厚な文学的灝気の中にいたわけである。それをまずは痛感した。
 それにしても、正直なことを書くと、読んでいてちょっとわずらわしさも感じずにはいなかったのが意外である。聴く力は無類である。文章もうまいし、正確無比である。西洋文化全体に対する深い理解。しかし、そこまで文学的に、またそこまで分析的に書かなくてもいいじゃないか、何もかもわかっていて、何もかも深く聴き取れていて、ホントにすごいですねという感覚に圧倒されて、かなわないのである。もちろん音楽に対する自分の理解力は吉田さんの 100分の1 もないかも知れないが、自分なら黙るところを、言葉が多すぎるのだ。いや、何といういいがかりであろうか。まあ僻み根性なのかも知れないが、ちょっと疲れる。そう、吉田さんは啓蒙のつもりも多々あるのだろうが、お説ごもっともでもうお腹いっぱいという感じが、不遜ながら否めない。
 とか書いたが、まだ読み始めたばかりだ。最後まで読むつもりである。とにかく、吉田さんを客観的に読むなど、自分には不可能である。
 本書にこんな文章があった。「あのくそ真面目で感傷的な十九世紀――ベートーヴェンからヴァーグナーにいたるまで――」(p.118)。これだ、俺はまさにこれなんだと思わされた。クソマジメで感傷的――ごもっともという他ない。

自分はモノローグの人だ。よく、他者がいないっていわれるやつ。


NML で音楽を聴く。■スカルラッティソナタ K.534、K.551、K.430、K.215、K.109 で、ピアノはクリスチャン・イーレ・ハドラン(NMLCD)。このピアニストのスカルラッティ、悪くない。もっと聴きたいのだが。■ハイドンのピアノ・ソナタ第五十三番 Hob.XVI:34 で、ピアノはクリスチャン・イーレ・ハドラン(NML)。スカルラッティがよかったので聴いてみた。この曲はどうしてもブレンデルの録音を思い出してしまうのであるが、これはブレンデルほどではないけれども、これはこれで成立している清潔繊細な演奏だといいたい。大したことなさそうでも悪くないのですよ。

The Lark

The Lark

ブラームスの四つの曲 op.119 で、ピアノはクリスチャン・イーレ・ハドラン(NML)。悪くないブラームス。しかしいい曲だな。■バッハのヴァイオリン・ソナタ第一番 BWV1014 で、ヴァイオリンはアレクサンドル・ブリラ、チェンバロはマリア・バナシキヴィッチ=ブリラ(NML)。(AM02:03)
Bach: 3 Sonatas for Violin & Harpsichord

Bach: 3 Sonatas for Violin & Harpsichord

こともなし

振替休日。晴。

午前中からお昼すぎまで、VMware Tools というものの導入をおこなっておりました。ぐぐりまくってようやくできてうれしい。まあしかし、いいかげんにしとかんとあかんよね。でも、次は何を入れてみようかと思っている。正直言って Mint 17.2 はできるかどうか入れてみただけで、いまふつうに Mint 19.1 を使っているからね。何か他のものを入れたい。
 
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BunsenLabs を入れてみた。ホストPC は 64 bit だけれど、32 bit の OS も入れられるようだ。

日没前、ドラッグストアまで散歩。




 
suumo.jppha さん、あいかわらず文章が上手いし、写真もすごくいいな。昔はニートとかいわれたり自称していたりしたけれど、結局これくらい才能があれば定職に就く必要などないということだ。能力のない人間はアクセク働くしかないけれど、彼のようなのは最底辺にいるように見えて、現代の「貴族」なのだと思う。ふつうの人は真似ができない。


NML で音楽を聴く。■メンデルスゾーン交響曲第四番 op.90 で、指揮はセミヨン・ビシュコフロンドン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。いわゆる「イタリア」。ポピュラー曲だけれども、よい曲だな。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はクァルテット・エクセルシオNMLCD)。演奏会だったらブラヴォーってところだな。よい演奏でした。カッコいいベートーヴェンだ。■ブリテンの「イリュミナシオン」 op.18 で、テノールはアンソニー・ロルフ、指揮はジェーン・グローヴァー、ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ(NMLCD)。鳥肌が立つような名曲だ。まあ、自分はフランス語ができないので、ランボーの原詩は一語たりともわからないというレヴェルだが。でも、聴けば誰だってこのすごさはわかる。それにしてもこのアルバム、「イリュミナシオン」と「ノクターン」が入っていて、「セレナード」がないというのがじつに惜しい。僕はこの「セレナード」が大好きなのだが、ということは前にも書いた気がする。ブリテン端倪すべからざる楽家ですよ。■バルトークのピアノ協奏曲第二番で、ピアノはパスカル・ロジェ、指揮はヴァルター・ヴェラー、ロンドン交響楽団NMLCD)。

Ubuntu 16.04 に VMware Player を入れる

日曜日。休日(天皇誕生日)。曇。

一日中 PC をいじっていました。古いバージョンの Ubuntu も入れておこうと、Ubuntu MATE 18.10 の代わりに Ubuntu 16.04 LTS を入れ直してみました。ダウングレードということですね。
marginalia.hatenablog.comで、そこに VMware を入れてみようとしているのだが、なかなか手ごわい…。

うまくいった!
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Ubuntu 16.04 LTS 上の VMware Player 12.1.0Linux Mint 17.2 が走るという謎(笑)。

エリック・フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』 / 後藤明生『挟み撃ち』

雨。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第六番 BWV1051 で、指揮はラース・ウルリク・モルテンセン、コンチェルト・コペンハーゲンNMLCD)。■バルトークの「子供のために」第一巻(ハンガリー民謡による)で、ヴァイオリンはスティーヴン・ワーツ、ピアノはガブリエレ・カルカーノ(NMLCD)。 ■サティの「コ・クオの少年時代(母親の忠告)」、ブゾーニソナチネ第三番「子供のために」(ピアノ編)、ストラヴィンスキーの「五本の指で」、ウェーベルンの「子供のための小品」で、ピアノは高橋悠治NMLCD)。■トーマス・ラルヒャー(1963-)の「Smart Dust」 (抜粋)で、ピアノはタマラ・ステファノヴィッチ(NML)。ラルヒャーよいな。鮮烈なモダニズムだ。ラルヒャーのアルバムを聴くのはこれで三枚目。

Larcher: What Becomes

Larcher: What Becomes

メンデルスゾーン交響曲第三番 op.56 で、指揮はセミヨン・ビシュコフロンドン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。いわゆる「スコットランド」。スクリャービンの六つの前奏曲 op.13 で、ピアノはドミトリー・アレクセーエフ(NMLCD)。
 
保険会社の担当来訪。新しく担当が替わった等でついでに保険はどうかとうるさく勧められたが、妻も子供もいなくかつ貧乏人のわたくしに何で医療保険や生命保険が要るのか。保険というものは将来のある人のためにあるものである。とかいってお引き取り願った。死亡保険が何百万出るといって、いったい誰のために残すというのか。で、あとにすごい香水の匂いが残って辟易する。まあ、あの人たちも仕事なのはわかるけれど、仕方ないよね。母の病気で、日本の公的医療保険制度がよくできていることを実感した身としては当然のことである。


老母の Linux Mint のアップデート関連でエラーが出ていたので直す。こういう目的には英語は必須。
で、自分の Mint 19 を 19.1 "Tessa" にアップグレードする。そんなには変っていないようだけれど、あとで詳しく見てみることにしよう。
 

ワイヤレスマウス落手。Linux だからどうかと思ったが、前回は必要だったソフトのインストールは必要なく、USBポートに受信機を差し込んだらいきなり使えた。ホントに Linux を使うハードルが下がったな。新品なので反応がとても軽快で、こんなならもっと早く買い替えていればよかったと思ったくらい。


曇。県図書館。
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。ホット・セイボリーパイ イギリス風カレー+ブレンドコーヒー507円。いま借りてきた『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』を読む。これは有名な本で、いつかは読みたかったものだ。冒頭から心をうたれる話だが、盲目で病の篤いディーリアスのわがままなことといったらちょっと驚かされる。フェンビー青年はよく逃げ出さなかったものだ。さて、ディーリアスが聴いてみたくなるわけだが、これまで自分はそれほどディーリアスを聴いてきたわけではない。かなり甘い音楽という印象なのだが。
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図書館から借りてきた、エリック・フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』読了。確かに感動的だが、ちょっと意外な読後感も残った。これまで様々な人たちが本書に言及した記述は決して少なくなく、自分も少なからずを目にしてきたので、フェンビーという人はこういう人だろうという先入観ができていたのだが、それと合うような、合わないような。確かにフェンビー氏はある種の才能をもち、モデストでかつ無垢、無私なところがある。公平で寛容な目をもち、ディーリアスの協力者としてディーリアスの音楽に貢献した。そして、本書の出版がさらに世のディーリアスへの関心を高めたという功績がある。確かに、他に代えがたい人であった。
 しかし、最終的に思うのは、ディーリアスの音楽が自分を拒絶するのではないかという予感である。フェンビー氏もはっきりと書いているが、ディーリアスの音楽はそれを好む人には至高のそれであり、他の一切の作曲家を超えているということになる。しかし、わからない人には一生わからないだろうと。フェンビー氏がこういう言い方をしているわけではないが、まあしかしそういうのも同然であろう。自作以外に、ディーリアスが好んだ音楽は非常に少ない。なるほど、そうなのだろうなと。ディーリアスは伝統的に練り上げられてきた和声法を極端なまでに嫌う。それは「計算」であり、音楽ではないのだと。そういうディーリアスの言いたいことはよくわかる。クラシック音楽というものは突き詰めれば和声法とそれに対する緊張感に尽きるであろう。そこらあたりが、和声法の歴史をあまり考慮しない、ポピュラー音楽とのちがいである。基本的にポピュラー音楽の和声進行は「和声法」の立場からすると使い古された陳腐なものであり、実験的なジャズや山下達郎のような存在は例外である。ポピュラー音楽は、そういうところで勝負しているのではない。それを思うと、ディーリアスはクラシック音楽の世界にいながら、本質的にポピュラー音楽に近いのかもしれない。もっともこれらは、わたしという音楽をよくわかっていない人間のいうことであるが。

ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス

ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス

なお、フェンビー氏はディーリアスに対する盲目的な崇拝者ではない。もしそうであったら、とても氏の役は務まらなかったであろうし、ディーリアスもまた氏を認めなかったにちがいない。ディーリアスのために自分を犠牲にするようなことはなく、それでこそという感じがする。


後藤明生を読む。

後藤明生『挟み撃ち』読了。先日も書いたが、一種の実験的小説といえるだろう。筋というようなものは希薄であるわけだが、しかし滅法おもしろかったですね。主人公がこだわっているものがまったく無意味なのが可笑しい。ところどころ話がどんどん脱線していくし。主人公はちょっと頭がおかしいのではないかという風に思えるように書かれているのだが、しかし彼はマジメ(いや、そうマジメでもないか)に追求しているのである。でも、ちょっと思ったのだが、西洋人が仮に同じような小説を書いたとしたら、少なくともこの倍くらいの長さになるのではないかという気がする。最後は何だかあっけない中断で、もう少し読んでいたかったな。主人公がナニをもう少し追求しないと、もの足りない感じ。
 ところでこれ、確実に「戦後文学」でもありますね。戦争など日本の近代の歴史が、さりげなく小説中にばらまかれている。主人公の追求しているものも、旧陸軍に関係があるし。だから、この小説は何の意味もないということにはならないのであろう。まあ、そういうヒョーロン的な読み方はどうでもいいといえばそうなのだが。ふつうに読んで愉快なので、全然小説を読まない若い人たちにいきなり読ませてみたい気がする。

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

こともなし

晴。

AOL(問題集)7 - Marginalia
今日も AOL をやっていたのですが、次第に問題がむずかしくなってしんどくなってきた。まーえーかげんにしとかんとあかんね。
しかしこれ、誰か Ruby で制限時間以内に解いてやってくださいよ。マジむずかしいんで。

部屋掃除。きれいにしてすっきり。

プログラミングで遊んでいたら、県図書館の返却日が今日だった。あらー、これは明日行ってあやまっておかないと。


いまの自分に何が足りないか正確にわかるとよいのだけれどな。それがわかれば解決したも同然なのだが。
スタイル。

NML で音楽を聴く。■バッハのイタリア協奏曲 BWV971 で、ピアノはアンジェラ・ヒューイットNML)。(AM01:49)

Bach;Italian Concerto

Bach;Italian Concerto