エリック・フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』 / 後藤明生『挟み撃ち』

雨。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第六番 BWV1051 で、指揮はラース・ウルリク・モルテンセン、コンチェルト・コペンハーゲンNMLCD)。■バルトークの「子供のために」第一巻(ハンガリー民謡による)で、ヴァイオリンはスティーヴン・ワーツ、ピアノはガブリエレ・カルカーノ(NMLCD)。 ■サティの「コ・クオの少年時代(母親の忠告)」、ブゾーニソナチネ第三番「子供のために」(ピアノ編)、ストラヴィンスキーの「五本の指で」、ウェーベルンの「子供のための小品」で、ピアノは高橋悠治NMLCD)。■トーマス・ラルヒャー(1963-)の「Smart Dust」 (抜粋)で、ピアノはタマラ・ステファノヴィッチ(NML)。ラルヒャーよいな。鮮烈なモダニズムだ。ラルヒャーのアルバムを聴くのはこれで三枚目。

Larcher: What Becomes

Larcher: What Becomes

メンデルスゾーン交響曲第三番 op.56 で、指揮はセミヨン・ビシュコフロンドン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。いわゆる「スコットランド」。スクリャービンの六つの前奏曲 op.13 で、ピアノはドミトリー・アレクセーエフ(NMLCD)。
 
保険会社の担当来訪。新しく担当が替わった等でついでに保険はどうかとうるさく勧められたが、妻も子供もいなくかつ貧乏人のわたくしに何で医療保険や生命保険が要るのか。保険というものは将来のある人のためにあるものである。とかいってお引き取り願った。死亡保険が何百万出るといって、いったい誰のために残すというのか。で、あとにすごい香水の匂いが残って辟易する。まあ、あの人たちも仕事なのはわかるけれど、仕方ないよね。母の病気で、日本の公的医療保険制度がよくできていることを実感した身としては当然のことである。


老母の Linux Mint のアップデート関連でエラーが出ていたので直す。こういう目的には英語は必須。
で、自分の Mint 19 を 19.1 "Tessa" にアップグレードする。そんなには変っていないようだけれど、あとで詳しく見てみることにしよう。
 

ワイヤレスマウス落手。Linux だからどうかと思ったが、前回は必要だったソフトのインストールは必要なく、USBポートに受信機を差し込んだらいきなり使えた。ホントに Linux を使うハードルが下がったな。新品なので反応がとても軽快で、こんなならもっと早く買い替えていればよかったと思ったくらい。


曇。県図書館。
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。ホット・セイボリーパイ イギリス風カレー+ブレンドコーヒー507円。いま借りてきた『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』を読む。これは有名な本で、いつかは読みたかったものだ。冒頭から心をうたれる話だが、盲目で病の篤いディーリアスのわがままなことといったらちょっと驚かされる。フェンビー青年はよく逃げ出さなかったものだ。さて、ディーリアスが聴いてみたくなるわけだが、これまで自分はそれほどディーリアスを聴いてきたわけではない。かなり甘い音楽という印象なのだが。
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図書館から借りてきた、エリック・フェンビー『ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス』読了。確かに感動的だが、ちょっと意外な読後感も残った。これまで様々な人たちが本書に言及した記述は決して少なくなく、自分も少なからずを目にしてきたので、フェンビーという人はこういう人だろうという先入観ができていたのだが、それと合うような、合わないような。確かにフェンビー氏はある種の才能をもち、モデストでかつ無垢、無私なところがある。公平で寛容な目をもち、ディーリアスの協力者としてディーリアスの音楽に貢献した。そして、本書の出版がさらに世のディーリアスへの関心を高めたという功績がある。確かに、他に代えがたい人であった。
 しかし、最終的に思うのは、ディーリアスの音楽が自分を拒絶するのではないかという予感である。フェンビー氏もはっきりと書いているが、ディーリアスの音楽はそれを好む人には至高のそれであり、他の一切の作曲家を超えているということになる。しかし、わからない人には一生わからないだろうと。フェンビー氏がこういう言い方をしているわけではないが、まあしかしそういうのも同然であろう。自作以外に、ディーリアスが好んだ音楽は非常に少ない。なるほど、そうなのだろうなと。ディーリアスは伝統的に練り上げられてきた和声法を極端なまでに嫌う。それは「計算」であり、音楽ではないのだと。そういうディーリアスの言いたいことはよくわかる。クラシック音楽というものは突き詰めれば和声法とそれに対する緊張感に尽きるであろう。そこらあたりが、和声法の歴史をあまり考慮しない、ポピュラー音楽とのちがいである。基本的にポピュラー音楽の和声進行は「和声法」の立場からすると使い古された陳腐なものであり、実験的なジャズや山下達郎のような存在は例外である。ポピュラー音楽は、そういうところで勝負しているのではない。それを思うと、ディーリアスはクラシック音楽の世界にいながら、本質的にポピュラー音楽に近いのかもしれない。もっともこれらは、わたしという音楽をよくわかっていない人間のいうことであるが。

ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス

ソング・オブ・サマー 真実のディーリアス

なお、フェンビー氏はディーリアスに対する盲目的な崇拝者ではない。もしそうであったら、とても氏の役は務まらなかったであろうし、ディーリアスもまた氏を認めなかったにちがいない。ディーリアスのために自分を犠牲にするようなことはなく、それでこそという感じがする。


後藤明生を読む。

後藤明生『挟み撃ち』読了。先日も書いたが、一種の実験的小説といえるだろう。筋というようなものは希薄であるわけだが、しかし滅法おもしろかったですね。主人公がこだわっているものがまったく無意味なのが可笑しい。ところどころ話がどんどん脱線していくし。主人公はちょっと頭がおかしいのではないかという風に思えるように書かれているのだが、しかし彼はマジメ(いや、そうマジメでもないか)に追求しているのである。でも、ちょっと思ったのだが、西洋人が仮に同じような小説を書いたとしたら、少なくともこの倍くらいの長さになるのではないかという気がする。最後は何だかあっけない中断で、もう少し読んでいたかったな。主人公がナニをもう少し追求しないと、もの足りない感じ。
 ところでこれ、確実に「戦後文学」でもありますね。戦争など日本の近代の歴史が、さりげなく小説中にばらまかれている。主人公の追求しているものも、旧陸軍に関係があるし。だから、この小説は何の意味もないということにはならないのであろう。まあ、そういうヒョーロン的な読み方はどうでもいいといえばそうなのだが。ふつうに読んで愉快なので、全然小説を読まない若い人たちにいきなり読ませてみたい気がする。

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)