アントニオ・ダマシオ『意識と自己』

曇。涼しい。
このところ睡眠時間が長くなっている。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十三番 K.415 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。

昼まで寝る。疲れているらしい。しかし見ていた夢は悪いものではなかった。

昼から一時間半ほど寝て、スーパー。寝てばかりいるな。

夕方、カルコス。「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直し。これで三度目である。
河出文庫リチャード・パワーズの文庫新刊をレジに出したら、「これ、わかりにくいけれど下巻がありますが、よろしいですか」と言われて驚く。本棚を見直したら、そっくりな装丁で確かに下巻があるではないか。しかも念の入ったことに、題名が長くて背表紙の「上」「下」という文字がオビに隠れているし。ありがたく下巻も買いました。さすがプロだなという感じ。ちょっと今どきめずらしい本屋なのではないか、ここは。いや、気も晴れたし。ありがとうございました。


アントニオ・ダマシオ『意識と自己』読了。田中三彦訳。脳科学の知識の乏しい自分としては、かなりむずかしい本であったが、なかなかおもしろかった。著者の提示する概念を、自分のもっている東洋思想的な認識でどこまで置き換えられるかという楽しみもあった。もちろん、自分の能力不足で遊びのようなレヴェルでしか可能でないのは残念ではあったが。それにしても、これほど高度な本が一般向けに書かれた書物であるとは、西洋との隔絶を感じる。現在の日本ではほとんど考えられない話で、本書は文庫化されたけれども、日本でどれくらいの読者をもつものであろうか。自分ごときでも読むのだから、かしこい若い人たちには是非挑戦して頂きたいものである。できあがった真理の書いてある本ではなく、現在進行形の探求の書。科学と哲学のクロスオーバーする領域を探求する本書が、つまらない筈がないのだ。

意識と自己 (講談社学術文庫)

意識と自己 (講談社学術文庫)

 
大栗博司を読む。むずかしいなあ。

こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十七番 K.453 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。のびやかないい曲だな。

祖父の三十三回忌。妹一家も来てくれる。法事はいつ以来だろう。
皆んなで珈琲工房ひぐち北一色店にて昼食。おいしかった。


しかしツイッターに問題の所在も正しい解決策も全部書いてあるらしいのに、何で何も変わらないのかね。いや、変わっていて自分が知らないだけなのかな。不思議。
もうツイッターを見ていてもむかつかないわたくし。いろいろなんですねって思うようになった。でもまあ、やることなくて暇つぶしにツイッターを見ているのは大概にしておこうと思う。それは皆さんに任せる。わたくしは寝る方を選択する。


アントニオ・ダマシオを読む。痛みを感じることと「痛い」と感じることがちがうというのはおもしろい。ものすごい痛みを感じながら、ふつうに快活に過ごせるということがあるのだ。不思議だな。一種の「病的な」状態ということになるのだろうが。その現象が見られたのは、ある病気の激痛に対処するためのやむを得ない手術によるものであったらしいけれども。

しかし、どうも皆さんベルクソンの『物質と記憶』をきちんと読んだ方がいいのではないかと思う。まあいわゆる筋のいい人はベルクソンというとオカルト扱いするので、誰も読まない訳だが。小林秀雄も『物質と記憶』はベルクソンの中でいちばん重要だと言っているのだけれど、そもそも小林秀雄が読まれないからなあ。時代遅れの人間がもう少しいてもいい気がするのだけれど、現状では無理ですね。


真面目で真摯な人間にこんなことを言うのは性格が悪いにも程があるのだが、若松英輔さん、ツイッターでナイーブすぎやしませんか。もうホントにごめんなさいだけれど。下らない人間にならないと、下らない人間のことはわからないと思うのだが。ミイラ取りはミイラにならないといけないと思っている。でもまあ、高みだけ見ているのが正しいのかな。下らない人間になって、だから何といわれると返す言葉がないか。

このところ、俺ってホント下らない人間になったなあと思う。前がそんなに立派だった訳でもないけれど。それだけじゃダメなのは感じますね。下らないだけだとやっぱりつまらない。カスだけでいいことはない。


常に相手の言説のメタレヴェルに立っていこうとするのが知性であると勘違いしている人が多くて、実際そういう人はきわめて頭がよいことが多い訳である(いまはツイッターでよく見かける)。東浩紀さんはかかる活動を「批評」と呼び、それは「日本固有の『病』である」と(カッコいいことを)言った。けれども、小林秀雄吉本隆明の「批評」はじつはそういうものではないのであり、かかる意味での「批評」は柄谷行人氏が典型だと思う。だから、いまや柄谷行人は大衆化したのであり、それが当り前になって御本家は陳腐化した。でもまあ、柄谷行人もじつはそれだけの人ではないのだけれどね。むしろそれは、東浩紀から遡行した柄谷行人なのだと思う。って、こんなことを言って何か意味があるのだろうか。

アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』

晴。
遅くまで寝ていた。

起きて Lubuntu 18.04 に Ruby を入れる。バージョンは 2.5.1 で、自分のインストールしている中では最新である。Lubuntu は立ち上げが速い。

和菓子「餅信」。スーパー。

昼寝のあとぼっーとしていて、ガソリンスタンドへ行ってきたらもう夕方。だらだらしている。脳みそもくさっている。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第九番 K.271 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はテオドール・グシュルバウアー(NMLCD)。導入はさり気ないのだけれど、全篇にわたって意欲的な曲。というか、自分にはむずかしい。たぶん当時の聴衆も、悪くないけれどよくわからんなくらいの感じだったのではないかと思う。モーツァルトはさり気なくむずかしいことをやる人だった。

アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』読了。入門書なのだけれど、全然やさしい本ではない。そもそも、本書では「ネイション」と「国家」という語が厳密に区別されているが、じゃあ「国家」って何のことか、訳者による説明は一切ない。訳者(あるいは大多数の人)には当り前のことなのかも知れないが、どうやら「国家」というのは state の訳語のようである。そして state と nation のちがいは、nation とは nationalism と結び付いた概念であるということになる。そしてその nationalism というのが複雑怪奇なのだから、結局 nation もよくわからない。何それ? でもまあ言葉なんてそんなものである。
 それから、本書には「愛国心」という語が稀にしか出てこないが、「愛国心」というのは nationalism のことではなくて、patriotism の訳語である。ゆえに、本書では「愛国心」という言葉があまり出てこない(索引で見てもわずか 6 箇所)わけだが、「愛国心」と「ナショナリズム」がほとんど関係ないというのは、日本語の語感からするときわめて奇妙ではあるまいか。これは、日本語がおかしいというわけではなくて、日本語と西洋語では感覚がまったくちがうということであると思う。例えば、自分はいまの日本という「国家」にかなりウンザリしているが、一方でわたしに「愛国心」がないわけではない。そのあたりが自分の矛盾であると思うのだが、さて、ここでの「国家」は state、「愛国心」は patriotism と訳してよいものなのであろうか。そもそも、そのように西洋語の用法を踏まえない日本語の使い方が、まちがっているということなのであろうか。どうもよくわからない。
 結局、本書はいろいろ説明してくれて、かなり明快なことを仰っているわけだが、自分などにはますますよくわからなくなったというのが実際のところである。また、最後の方で著者は「ナショナリズム」は真正な文化の一種(政治化した文化)だ、それを認めろ(p.296)とも言っているが、そのあたりもよくわからなかった。あまり明敏でない人には、本書はかなりむずかしゅうございました。

ナショナリズムとは何か (ちくま学芸文庫)

ナショナリズムとは何か (ちくま学芸文庫)

それにしても、「ナショナリズム」というのは厄介で、それで論争どころか、罵倒のし合い、さらには殺し合い、戦争にまで至ったりする。また、国家は「ナショナリズム」を管理しようとする。果たして「文化」で済むのかなあ。よくわかりませぬ。

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ(下)』

晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第九番 op.14-1、第十番 op.14-2 で、ピアノはヴィルヘルム・ケンプNMLCD)。■スカルラッティソナタ K.148, K.149, K.150, K.151, K.152 で、ピアノはカルロ・グランテ(NMLCD)。

仏壇屋。図書館。スーパー。
スーパーのポイントカードを忘れた。暑さで頭がぼーっとしている。エアコンの利いた部屋にばかりいるからな。部屋から出ると朦朧とする。

okatake さん、大根の葉っぱを食べないのか。ウチは食べますよ。油揚げと甘辛く炊いて、胡麻をかけたりする。うまいです。

昼寝。

ブルガーコフ巨匠とマルガリータ(下)』読了。水野忠夫訳。うーん、おもしろかった。世界文学の傑作でもあろうが、そんなことはいいのである。何という悪ふざけ。エンタメ以上におもしろい、ってひどい読み方でしょうけれどね。非常に映像的で、これは映画になっていないのだろうか? CG の効果をこれでもかと使った映画になるだろうし、アニメにしたってよい。それにしても倫理的に無法、これは果たして、現実の風刺なのであろうか。ともかくおもしろい、でいけないのだろうか? 文学のわからぬわたくしである。

しかしこれ、マンガだよね。


Ubuntu 18.04.1 がようやく明後日リリースされるようだな。これで LTS 版もアップグレードされるだろう。Linux Mint も 19 になるのかな。


まだサブ機のパーティションが余っているので、Lubuntu 18.04 をインストールしてみる。インストールについてはこちらに多少詳しく書いておいた。
20180725004852
どうして Linux を使うかというと、いちばんは自己満足(笑)。あと、プログラミングをするなら Windows よりも Linux の方がいいのだよね。特に自分のよく使う Ruby などは。

Lubuntu はいわゆる軽量 Linux で、スペックの低い、メモリの少ない PC でも動くようにと考えられたディストリビューションである。なのでとてもシンプル。しかしベースは Ubuntu なので、情報は多い。ただその性格上、始めからインストールされているソフトは少ないので、自分の使いたいものをインストールしていくことになる。日本語入力は最初から mozc が使えるみたいだ。サイズが小さいので、インストールは早く終わる。

Ruby のインストールは明日にしよう。(AM01:01)

田邊園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻より第九番 BWV854〜第十八番 BWV863 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■ハイドン交響曲第九十八番で、指揮はクラウディオ・アバドNMLCD)。

お昼寝。

ダラダラばかりしていても仕方がないので、酷暑中イオンモールミスタードーナツへ行ってくる。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー486円。田邊園子氏による坂本一亀(かずき)の評伝を読む。坂本一亀は自分としてはまず坂本龍一の父親であり、三島由紀夫に『仮面の告白』を書かせた伝説的編集者というものであった。NHK の「ファミリーヒストリー」の坂本龍一氏の回で詳しく紹介されていて、それで気になっていたら、本書が図書館に入っていたので借りてきたというわけである。半分ほど読んだが、とてもおもしろい。というか、随所で感動させられて困った。坂本一亀氏は自分より遥かに大きい人物であり、ここで聞いた風なことを書くつもりはない。坂本一亀氏は本当にマンガにでもあるような伝説的編集者の典型のような人で、洵に時代を感じた。そして自分は、そのような意味での「文学」をよく知らないなと思った。文学に命をかけるというのが、ちっともおかしくないような話なのである。しかし、いまでもたぶんよい編集者はいるし、意欲的な出版社というのはおそらくあるのであり、自分がよく知らないだけなのである。また、「文学」とはちがうところで、いまの若い人たちが人生をかけてやるに値する何かも、たぶんあるにちがいない。のんべんだらりとするのもいいかげんにしようと、凡庸なことを思った。なお、本書にはところどころに林達夫氏の姿が見えていて、ちょっと目を引かれたことを書き添えておこう。

図書館から借りてきた、田邊園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』読了。上の感想に特に付け加えることはない。本書に息子・龍一の言葉として次のものがあるのを引用しておきたい。

今の映画にしても、それからポップスにしても、あるかのように見えるけど、ないんですよ。実は一回、解体されてるの。だけど一回解体した後に何かを建築することはできないんで、もう一回、当の壊したものを調べ直して、マニュアル化してね、一から一万まで全部、どうやったらこういうものをつくれるかと、ばらばらに書き直して、それを参照しながらやってるんですね。だから、今のポップス、ぼくは「マニュアル・ポップ」と言ってるんだけど、ぜんぶマニュアルなんですね。何かを、そういうもの作りたいという動機なんか何も感じられないわけですよ、すべて。映画もそうですね。ただ、作るっていう本来非常に手作業の行為をものすごく緻密に、超テク、ハイテクでやっていく快感だけに溺れてるだけなんですね。何も創造行為はしていないような気がする。(p.189-190)

まことにそのとおりで、これ以上いうことはない。これに気づいていない人は、ナイーブなのか無知なのか、どちらか(あるいは両方)であるしかない。でもまあそれはよい。著者は、この息子の姿勢は、父とまったく同じであるとする。この父も息子も、生きるのはマニュアル以上のものであるということを、直覚的に刷り込まれてしまっている。ただ、時代はちがっているので、息子の方はよりむずかしい生き方を強いられるしかなくなったということだ。著者は河出書房時代の坂本一亀の部下であり、龍一に依頼されて本書を執筆したとする。本書に何度も出てくるとおり、坂本一亀には合理性もへったくれもなく、部下や同僚からすればきわめてやっかいな存在であった。命令はしばしば理不尽で、軍隊式の命令口調であったという。そして、おそらく含羞によるものであろう、一種のアノニマスへの志向があった。息子の方にも、じつはそのアノニマスの志向は歴然としており、じつはバンカラともいうべき性格なのである。さて、突然であるが、現代とは何なのか、厄介なものという他ない。フェイクがすべてを覆い尽くしていく中、何か真実なものを追求することが可能なのか? しかしまあ、これは自分には大きすぎる問題である。

伝説の編集者 坂本一亀とその時代 (河出文庫)

伝説の編集者 坂本一亀とその時代 (河出文庫)

ついナイーブにも「真実なもの」などと書いてしまったが、いまや「真実なもの」って何だ、そんなものがあるのか?というところであろう。実際、そのようなものがあるのか、むずかしいところではないか。少なくとも、自分の中にそんなものはないような気がする。自分には、これを表現しなければ死んでも死に切れないというようなものはない。それは確かだ。まあそれは、自分に才能がないというだけのことかも知れないのだが。その「才能」ってのも、いまやむずかしいですね。こんなことを書いていると切りがない。


ブルガーコフを読む。

こともなし

日曜日。晴。

ずっと暑いが、今日はこれまた特別に暑いのではないか。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第六番 op.68 で、指揮はクラウディオ・アバドベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。アバドはもうちょっとたっぷりとしていたら完璧なのになとか、ほんのちょっとだけ強引かなとか思いながら聴いていたのであるが、第三楽章あたりから「おやおや」と思い始めて、終楽章では感動して困った。いい曲だな。やっぱりアバドBPO、やるなあ。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十三番 K.333 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。よくわからないのだけれど、野平さんいいのじゃないかな。■シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはワルター・クリーン(NMLCD)。最も危険な作曲家、シューベルト。この曲はとりあえずどれかリヒテルのライブ録音を聴けばよいのであるが、このクリーンの演奏もなかなかよいね。パワーも抒情もどちらもある。

夜も暑い。

NML で音楽を聴く。■シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。リヒテルの演奏も聴きたくなった。すごいな。追記。これは1979年の東京でのライブ録音らしい。リヒテルは日本にしょっちゅう来ていた。自分もリヒテル最晩年の演奏会に行こうと思えばいけたのに、行かなかったのは今から思うともったいなかったな。ポリーニも日本によく来ているけれど、チケットが高すぎます。

Piano Sonatas Nos. 13 & 14

Piano Sonatas Nos. 13 & 14

ベートーヴェンのピアノ・トリオ第七番 op.97 で、ヴァイオリンはレオニード・コーガン、チェロはムスティスラフ・ロストローポーヴィチ、ピアノはエミール・ギレリスNML)。いやもう、本当にすばらしかった。まったくロシアの大家たちってのはどうなっているのだ。この曲(いわゆる「大公」)はしょっちゅう聴きたくなるのだが、長い(40分以上かかる)のとよい演奏がむずかしいこととで、めったに聴かない。満足しました。リードしているのはピアノのギレリスなのだけれど、コーガンもロストロポーヴィチもすごいからね。これぞ室内楽という。
Beethoven, Schumann, Strauss, Sinding, Villa-Lobos: Chamber Music

Beethoven, Schumann, Strauss, Sinding, Villa-Lobos: Chamber Music

 
シューベルト D784 の第一楽章第二主題が頭の中でぐるぐる回ってしかたがない。この曲って結局ここに尽きると思う。

落合陽一『デジタルネイチャー』 / 『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』

晴。朝から真っ白な雲がもくもく。
よく寝た。

NML で音楽を聴く。■ラヴェルの「古風なメヌエット」、「メヌエット 嬰ハ短調」、「ハイドンの名によるメヌエット」、「前奏曲」、「シャブリエ風に」、「ボロディン風に」で、ピアノは阿部裕之(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番 K.332 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。野平さん、いいのじゃないかなあ。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.12-1 で、ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、ピアノはヤン・パネンカ(NMLCD)。

落合陽一『デジタルネイチャー』読了。副題「生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」。いやあ、おもしろかった。本書を自分が読むというのは、現代における最先端を時代遅れが読むということであろう。本書は自分には一種の SF でもあると思えた。それも、新しい「文体」で書かれてあるという。そう、新しい「文体」と最新の具体例が詰め込んであるにせよ、本書における「人間とコンピュータの融合」というのは、完全に新しいテーマとはいえない。本書はそれに、「悟り」とか華厳仏教からきた「事事無碍」とかいう東洋思想的な用語をまぶしてみせたところが新しいともいえる(ひところの西海岸文化にもそういうところがあったが)。しかし本書はそれが売りのひとつではあるが、発想は完全に西洋的なもので、東洋思想は「いかにも東洋人」という差異化のために使われていると見るべきであろう。著者の東洋思想理解は、門前の小僧レヴェルですらない。
 しかし、そんなことはよいのだ。例えば著者は、将来我々の社会は「AI+BI型」と「AI+VC型」に必然的に分極していくだろうとする。ここでの AI は最近ではふつうにいう「人工知能」のことである。では、BI、VC であるが、BI は「ベーシック・インカム」であり、VC は「ベンチャーキャピタル」のことである。「AI+BI型」の生き方というのは、AI の指示に従って(主に機械・インフラのメンテナンスなどで)働き、生活はベーシック・インカムで最低限保証されているというもので、地方での生活が念頭におかれており、いわば(著者はそうは言っていないが)下層階級に当たる。一方で「AI+VC型」の生き方とはクリエイティブに新しい AI の創造などを手がけ、積極的に経済を回していく存在であり、都会での生活が念頭におかれ、いわば上層階級に当たる。これらの二つへ必然的に(あるいは志向的に)分極していくという考え方だ。何というか、身も蓋もない発想である。確かにそうなっていくかもしれないのだが、まちがいなく「AI+BI型」になるだろうという自分などは、何かたまらないものを感じる。なるほど、これが未来か。いや、いまでも既にそういうところはあるのかも知れない。まったく、さっさと死にたいものだと自分などはつくづく思う。
 本書の提示する像で自分にもそうだなと思われたのは、ますます支配的になりつつあるオープンソース化が全面化した場合、資本主義はどうなるかという問題意識である。オープンソースは商業主義と対立するわけではないが、かといって全面的に親和的であるともいえない。マイクロソフトは最近まで完全に反オープンソースであったし、アップルはオープンソースの富を使いながら、オープンソースに富を還元しない企業であった。そのマイクロソフトもアップルもオープンソース化の波に抵抗できなくなりつつある。自分などでも、超低レヴェルながら使っている OS(というか OS のカーネルだが)は Linux であり、遊びで使っている言語は Ruby で、まったくオープンソースの恩恵を受けている。そして、IT企業でも、オープンソース運動にリソースを割くところが少しづつ増えてきた印象だ。だから、著者の考察は結構考えさせられるものがある。しかし、このあたりはもはや自分の手には負えまい。
 総括などは無理だが、自分には世界のデジタル化を「魔術」と捉える著者の感覚はよくわかる。けれども、著者はまだあまりにも若く(そこがよいのだ)、人間というものをあまり知っていないようにも思える。という言い方はまさに老害で、わたくしはもはや意味のない存在、まことに著者はまぶしく感じる。思えば、インターネット社会はこういう大風呂敷によって作られてきたのだ。確かに新しい才能と言ってよいのだろう。前著『魔法の世紀』も是非読んでみたいと思っている。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

それにしても、やはりここでも「人間」というものはいなくなるのだ。著者の描く世界で、我々はいったい何のために生きるのであろうか。いや、その世界はある意味既に現実化している。本当に、生きるって何なのだろう。って問いが古典的すぎますね。まあ、セックスとゲーム(快楽と興奮)のために生きるのでもいいのですけれどね。知らんけど。

図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』読了。

エリアーデ著作集 第2巻 豊饒と再生

エリアーデ著作集 第2巻 豊饒と再生

 

坂本龍一Alva Noto の「Glass」を聴く。
ツイッターで坂本さんがこんなツイートをしていた。「『Glass』をやるまでは、ぼくたちの前に、壁のようなものがあるような気がしていたんです。音楽の伝統に対して、何か新しいことをやりたいと思っていたのに、その何かが分からなかった。でもあのとき、その壁を壊したかなって気分になりました」と。これは興味深いな、ちょっと聴いてみたいなと思ってアマゾンを覗いてみたら、MP3ダウンロードが何故かなんと150円だった。即購入しました。いやあ、すばらしいですね。全篇即興演奏で、何というのか、ノイズ系アンビエントというか、まあ知りませんが、クラシック音楽でなし、ポピュラー音楽でもなし、非常に志の高い音楽だと思う。自分はこういうのは大好きです。ちょっと元気が出ました。坂本龍一はコラボレーション作品はそれほど聴いていないので、少しづつ聴いていきたいですね。

Glass

Glass

そうそう、細野さんの『N.D.E』をちょっと思い出しましたが、適切な想起ですかねえ。いや、全然ちがうかも知れないな、『N.D.E』はアンビエントとはいえないからな。どうなのでしょう。(検索したら『N.D.E』はアンビエントと言っている人がいました。やはりそうなのか。まあ何でもよいが。しかし『N.D.E』は長いこと聴いていないので、何か見当ちがいのことを言っているような気がする。)