石牟礼道子『ここすぎて 水の径』

日曜日。晴。
早起き。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十九番 K.459 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はアルミン・ジョルダンNML)。この曲の現代的な演奏を探していたが、なかなかいいのがなくて、結局ピリスを聴いている。ピリスにはいつも賛成というわけにはいかないが、やはり現代においてオーソドックス(正統)だなと思わざるを得ない。しかしこの BOX セット、安いですね。

Mozart: Pno Ctos

Mozart: Pno Ctos

ラヴェルの「クープランの墓」で、ピアノは阿部裕之(NML)。いやあ、ブラヴォーって感じ。ものすごくおもしろいラヴェルじゃないか。これはラヴェルのピアノ・ソロ曲の全集らしいので、他を聴くのが楽しみ。しかし自分が日本人だからだろうか、日本人音楽家がおもしろすぎる。どれを聴いてもたいていおもしろいし、どうしようもないというのはめったにない。おもしろいのだからまあなんでもよいのだ。(追記:アマゾンのレヴューで知ったのだが、このピアニスト、ペルルミュテールの弟子なんだな。なるほど、まさにそれって感じ。納得しました。)
阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

阿部裕之 ラヴェル・ピアノ・ソロ作品全集

ブリテンの幻想曲 op.2、オリヴァー・ナッセンの「カンタータ」op.15、ジャン・フランセの「コール・アングレ四重奏曲」他で、演奏はブリテンオーボエ四重奏団(NMLCD)。ブリテンオリヴァー・ナッセンが辛口でおもしろかった。ブリテンはもっと聴いてみたいと思いつつ、なかなか聴けていない音楽家


酷暑。お昼寝のち、またウチのスイカを食う。冷たくて甘くみずみずしく、うまい。
エアコンが限界のようにぶん回っている。

NML で音楽を聴く。■ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、「水の戯れ」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」で、ピアノは阿部裕之(NML)。すばらしいラヴェルだな。ラヴェルのポピュラー曲を聴いてみたけれど、徹底的に練り上げられている。ただこれ、聴く方にも多少の器の大きさを要求してくるよね。わからない人は全然わからないと思う。こんなすばらしいラヴェルは滅多にないのだけれど。ホントですよ。■ドビュッシー前奏曲集第二巻で、ピアノはディノ・チアーニ(NMLCD)。あああ、しんどかった。この曲を43分間聴くというのは自分の限界に近い。ピアニストもすごいのだけれど、ちょっと反芻している余裕がない。疲労困憊です。

ドビュッシー聴いて死んでれら。ホント俺って器が小さいよね。


夕食後寝てしまう。夜十一時に目覚める。
二時間ほどごろごろする。

図書館から借りてきた、石牟礼道子『ここすぎて 水の径』読了。九州にはぶあつい文人のネットワークがあるな。関西にもある。わたしの住んでいる中部地方に、目ぼしいものは思い当たらない。自分からしてそう思うのだが、中部人、いや、愛知岐阜の人間は、比較的人間の底が浅いと思う(かえってその辺境部はそうでもないかも知れない)。いくらいばっても、文化の厚みに乏しいのではないか。土地の霊(ゲニウス・ロキ)も、どうなのだろうか。もちろん昔はこのあたりにもゲニウス・ロキはいたであろうが、いまや雰囲気のある場所はなかなか思い当たらない。しかしおそらくはそんなことはないのかも知れなくて、自分にかかる感受性が乏しいだけなのかも知れない。石牟礼さんの郷土愛を目の当りにして、そんなことを思ったりした。

ここすぎて水の径

ここすぎて水の径

このところ、散歩する道が、田んぼや畑がなくなったり、今風のつるりとした家が急速に増えてきて、殺風景になっている。自分は多くを望んでいないのだが。
そういえば京都の僕が住んでいたあたり(北山)は僕がいた頃はまだのんびりしていて、畑などもまだたくさんあり、細流には蛍が乱舞したものであるが、いまはどうなのだろう。ストリートビューで見ると、もはや自分の記憶とあまりにもちがう光景になっている。一乗寺や高野のあたりが生活圏というところだったが、あのあたりも一本裏道へ入るとまだ田舎っぽくて、いい感じだった。だから、恵文社一乗寺店などは、当時はあまりにもおしゃれな雰囲気だったのだが。自分の知っている古本屋も、かなりが既になくなっている。そりゃそうだ、もはや四半世紀前のことだからな。