落合陽一『デジタルネイチャー』 / 『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』

晴。朝から真っ白な雲がもくもく。
よく寝た。

NML で音楽を聴く。■ラヴェルの「古風なメヌエット」、「メヌエット 嬰ハ短調」、「ハイドンの名によるメヌエット」、「前奏曲」、「シャブリエ風に」、「ボロディン風に」で、ピアノは阿部裕之(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番 K.332 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。野平さん、いいのじゃないかなあ。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.12-1 で、ヴァイオリンはヨゼフ・スーク、ピアノはヤン・パネンカ(NMLCD)。

落合陽一『デジタルネイチャー』読了。副題「生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂」。いやあ、おもしろかった。本書を自分が読むというのは、現代における最先端を時代遅れが読むということであろう。本書は自分には一種の SF でもあると思えた。それも、新しい「文体」で書かれてあるという。そう、新しい「文体」と最新の具体例が詰め込んであるにせよ、本書における「人間とコンピュータの融合」というのは、完全に新しいテーマとはいえない。本書はそれに、「悟り」とか華厳仏教からきた「事事無碍」とかいう東洋思想的な用語をまぶしてみせたところが新しいともいえる(ひところの西海岸文化にもそういうところがあったが)。しかし本書はそれが売りのひとつではあるが、発想は完全に西洋的なもので、東洋思想は「いかにも東洋人」という差異化のために使われていると見るべきであろう。著者の東洋思想理解は、門前の小僧レヴェルですらない。
 しかし、そんなことはよいのだ。例えば著者は、将来我々の社会は「AI+BI型」と「AI+VC型」に必然的に分極していくだろうとする。ここでの AI は最近ではふつうにいう「人工知能」のことである。では、BI、VC であるが、BI は「ベーシック・インカム」であり、VC は「ベンチャーキャピタル」のことである。「AI+BI型」の生き方というのは、AI の指示に従って(主に機械・インフラのメンテナンスなどで)働き、生活はベーシック・インカムで最低限保証されているというもので、地方での生活が念頭におかれており、いわば(著者はそうは言っていないが)下層階級に当たる。一方で「AI+VC型」の生き方とはクリエイティブに新しい AI の創造などを手がけ、積極的に経済を回していく存在であり、都会での生活が念頭におかれ、いわば上層階級に当たる。これらの二つへ必然的に(あるいは志向的に)分極していくという考え方だ。何というか、身も蓋もない発想である。確かにそうなっていくかもしれないのだが、まちがいなく「AI+BI型」になるだろうという自分などは、何かたまらないものを感じる。なるほど、これが未来か。いや、いまでも既にそういうところはあるのかも知れない。まったく、さっさと死にたいものだと自分などはつくづく思う。
 本書の提示する像で自分にもそうだなと思われたのは、ますます支配的になりつつあるオープンソース化が全面化した場合、資本主義はどうなるかという問題意識である。オープンソースは商業主義と対立するわけではないが、かといって全面的に親和的であるともいえない。マイクロソフトは最近まで完全に反オープンソースであったし、アップルはオープンソースの富を使いながら、オープンソースに富を還元しない企業であった。そのマイクロソフトもアップルもオープンソース化の波に抵抗できなくなりつつある。自分などでも、超低レヴェルながら使っている OS(というか OS のカーネルだが)は Linux であり、遊びで使っている言語は Ruby で、まったくオープンソースの恩恵を受けている。そして、IT企業でも、オープンソース運動にリソースを割くところが少しづつ増えてきた印象だ。だから、著者の考察は結構考えさせられるものがある。しかし、このあたりはもはや自分の手には負えまい。
 総括などは無理だが、自分には世界のデジタル化を「魔術」と捉える著者の感覚はよくわかる。けれども、著者はまだあまりにも若く(そこがよいのだ)、人間というものをあまり知っていないようにも思える。という言い方はまさに老害で、わたくしはもはや意味のない存在、まことに著者はまぶしく感じる。思えば、インターネット社会はこういう大風呂敷によって作られてきたのだ。確かに新しい才能と言ってよいのだろう。前著『魔法の世紀』も是非読んでみたいと思っている。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

それにしても、やはりここでも「人間」というものはいなくなるのだ。著者の描く世界で、我々はいったい何のために生きるのであろうか。いや、その世界はある意味既に現実化している。本当に、生きるって何なのだろう。って問いが古典的すぎますね。まあ、セックスとゲーム(快楽と興奮)のために生きるのでもいいのですけれどね。知らんけど。

図書館から借りてきた、『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生』読了。

エリアーデ著作集 第2巻 豊饒と再生

エリアーデ著作集 第2巻 豊饒と再生

 

坂本龍一Alva Noto の「Glass」を聴く。
ツイッターで坂本さんがこんなツイートをしていた。「『Glass』をやるまでは、ぼくたちの前に、壁のようなものがあるような気がしていたんです。音楽の伝統に対して、何か新しいことをやりたいと思っていたのに、その何かが分からなかった。でもあのとき、その壁を壊したかなって気分になりました」と。これは興味深いな、ちょっと聴いてみたいなと思ってアマゾンを覗いてみたら、MP3ダウンロードが何故かなんと150円だった。即購入しました。いやあ、すばらしいですね。全篇即興演奏で、何というのか、ノイズ系アンビエントというか、まあ知りませんが、クラシック音楽でなし、ポピュラー音楽でもなし、非常に志の高い音楽だと思う。自分はこういうのは大好きです。ちょっと元気が出ました。坂本龍一はコラボレーション作品はそれほど聴いていないので、少しづつ聴いていきたいですね。

Glass

Glass

そうそう、細野さんの『N.D.E』をちょっと思い出しましたが、適切な想起ですかねえ。いや、全然ちがうかも知れないな、『N.D.E』はアンビエントとはいえないからな。どうなのでしょう。(検索したら『N.D.E』はアンビエントと言っている人がいました。やはりそうなのか。まあ何でもよいが。しかし『N.D.E』は長いこと聴いていないので、何か見当ちがいのことを言っているような気がする。)